東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(75)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 東日本大震災が起きて一周年になりますが復旧、復興は中々捗らず、被災地で苦しんでいる人のことを考えますと、胸が締めつけられる思いが致します。追い打ちをかけるように、数年以内に南関東に70%の確率でマグニチュード7以上の直下型地震が襲来すると予測している大学教授が居られます。私達に出来ることは、防災意識を高め、非常時には冷静に行動するよう普段から心掛けることが精々ではないでしょうか。

 今回はNHKの人気番組「ブラタモリ」の案内で歴史探訪をします。
 その一 小名木川は江戸時代、徳川幕府の命令によって開削されました。第一の目的は行徳で産出する高級な塩を江戸幕府に納めることでありました。塩だけでなく、東北地方から米や食料等が運ばれ、都内に張り巡らされた運河を通じ江戸市内に入ります。要所に船番所があり、厳しい監視体制で積荷と乗客を役人がチェックしておりました。今でも中川から小名木川に入る接点に中川船番所跡が残っています。小名木川の他に、仙台掘川、大横川、立川等が開削され、物資の輸送や人の通行に供されました。
 明治以降、江東デルタ地帯は地下水の汲み上げによって地盤沈下が起り、現在では、小名木川を通行する船は、パナマ運河のように水門の開閉によって水位を調節しながら進まなければなりません。

 その二 富岡八幡宮から東洋一の新東京郵便局へ。東京都港湾局刊行の『図表でみる東京臨海部』を紐解いてみますと、江戸時代の埋め立て状況が分かります。富岡八幡宮の周辺は承応(1652-1654)、明暦(1655-1657)年間に埋め立てられました。八幡様の周りは運河に囲まれておりました。「ブラタモリ」の一行は護岸を頼りに探訪し、昔の地形を訪ね歩き、その結果、新砂にある郵便局に辿り着いたようです。新砂は大正7年−昭和38年までに埋め立てられた記録があります。町名によって埋め立ての時期が分かります。
 江東区だけに限りますと、寛永年間(1624-1640)は北砂1、2丁目、扇橋、正保年間(1644-1647)は北砂4−7丁目、東砂1、2丁目、以降南砂、三好、東陽、千田、毛利等であります。今は江東区内にも地下鉄等のネットワークが増え、東西線、大江戸線、半蔵門線、JR京葉線、有楽町線等により便利になりましたが、地震、津波等により堤防が決壊して地下鉄内に浸水することのないよう防災対策に万全を期してもらいたいです。

 その三 新宿周辺。江戸幕府は五街道を整備し、甲州街道は半蔵門が起点で、第一の宿場を高井戸に設定しましたが、距離がかなりあり、中間に新しい宿場を定め内藤新宿と云われました。徳川家康が甲州街道から江戸へ入るとき、案内をしたのが内藤氏で、家康はその功により、「ここに好きなだけ土地を与える」と云い、内藤氏は馬で付近を円を描くように一周し、円内の土地を拝領しました。それが今の新宿御苑です。甲州街道に沿って江戸市民の飲料水として玉川上水が開削されました。私が大学の土木工学科を卒業してゼネコンに就職し、配属されたのは、京王線を地下に埋める工事現場でありました。その後都営新宿線が京王線に乗り入れ、京王新線となって笹塚まで延長し、旧京王線は新宿から私の携わった初台駅のホームを通過して次の駅は笹塚となり、以来昭和55年から幻のホームと呼ばれていたことを「ブラタモリ」一行の探訪によって初めて知りました。

 甲州街道と青梅街道の分岐点は追分と云われ、今でも警察の追分派出所等に地名の名残りが感じられます。「ブラタモリ」の一行は「何と優雅な命名ですね」と感心しておられました。その後私は新宿西口地下駐車場建設や浄水場の跡地に新宿副都心計画が始まり淀橋変電所から十二社通りの地下に、シールドと云って、もぐらのように地中を掘り進み副都心に電力を供線する電線を埋設する工事に携わりました。静岡県で東名高速道路工事を最後にゼネコンを退職しました。その後数十年経って街道歩きをするようになって「追分」の由来を知りました。牛や馬の群を誘導し岐れ道があり、右と左へ所定の頭数を分けることから、分岐点を追分と呼ばれるようになりました。今思い起こしますと、あの頃が私の人生の分岐点であったような気が致します。




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