『歴史探訪』(79)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
先日地井武男さんが亡くなりました。地井さんは、私が自宅を建替えるときに仮住まいした処からほんの数十米という近くに住んで居られ、一度だけお見かけしただけでありますが、以来親しみを感じておりました。地井さんは「ちい散歩」で訪れる先で出会う人達との交流を大切にし、その温かく、そして明るい人柄で、どこへ行ってもまわりに笑顔の輪が広がって行きました。一方ブラタモリの森田氏は地理学者のような視点から街の由来等を掘り起し、見る人に感銘をもたらしました。今後も忙しい合間を縫って活躍されることと思います。
今日は7月4日、アメリカの独立記念日です。丁度36年前、私が建売住宅を手がけていた頃、販売会社の取締役が、「今度の建売のテーマはアメリカ独立二百周年記念にしましょう」と提案したことを、ふと思い出しました。
今回は、私の仕事の体験も含めて、日米交流について歴史探訪をします。
「泰平の眠りをさます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」江戸時代の末期、ペリー提督が浦賀に四隻の黒船を従えて来航し、日本は大騒ぎとなります。1854年、日米和親条約が締結されました。若し南北戦争が起らなければ、日本は米国の植民地になっていたかも知れません。
1941年、「行くよ一番真珠湾」太平洋戦争に突入、日本は世界を敵として戦い、そして敗れました。
私は1940年生まれですから、物心ついた時は戦争の真最中でした。父は応召で満州へ行き、最期はサイパンで玉砕しました。
1945年、日本は無条件降伏をして戦争は終わりましたが、子供ながら敗戦の悔しさより、平和になる喜びの方が大きかったように感じました。日本は廃墟の中から立ち上がり、驚異的な復興を遂げました。朝鮮戦争による漁夫の利のような特需もありましたが、鳩山一郎首相以後、五十五年体制と云って、政治が安定していたこと、農村から教育された優秀で勤勉な人材が都市に集まり工業化社会を形成したこと、東西冷戦の中、日米安保の傘の下で守られていたこと等が挙げられます。
1964年東京でオリンピックが開かれるまでになりました。私は大学を卒業後、某ゼネコンに就職しました。神部満之助という社長は皇室を崇拝する人で、皇居の工事をたったの一万円で入札し、世間は「アッ」と云って驚きました。私は戦後の教育を受けておりましたので、社長の方針にはかなりの抵抗がありました。しかし次のようなコメントを聞いて私の抵抗は尊敬に変わりました。「世界広しといえども、二千年もの間、侵略されずに続いている家系が他にあるか。」仕事の上でも自社の百倍も資本金がある米国のアトキンソンと提携し、見事に佐久間ダムの完成を成功させました。
私が米国を訪れたのは1972年でした。当時米国から日本に入って来て、ボーリングや、コカコーラは既に定着していましたが、DIY、ディズニーランドは未だ日本にはありませんでした。私が渡米したのは、三井物産の指導を仰ぎ、ツーバイフォー住宅の研究をしていましたが、シアトルにある三井物産の支店に行き、埼玉県の越谷市に土地を求め、建売住宅の一部にツーバイフォーのプランを開発し、コンテナに部材をアッセンブルして輸入する為の打合せをすることでありました。
当時の大統領はニクソンでした。私の滞米中に、ウォーターゲート事件が発覚し、ニクソンは弾劾裁判で罷免され、フォードに替わるというビッグニュースをテレビで見ることが出来ました。翌日食事を共にした日系米人のN氏にそのことを尋ねました。「現職の大統領が突然罷免されるということは、米国民として恥ずかしくないのですか。」N氏は「たとえ大統領でさえ辞めさせることのできる法律の力を我々は誇りに思っています。」
池田内閣が提唱した所得倍増計画によって日本経済は躍進しました。佐藤内閣のとき、沖縄が返還されました。日米繊維交渉で輸出規制がなされ、「糸を売って縄を買う」などマスコミに揶揄されましたが、佐藤栄作氏はノーベル平和賞を授与されました。
田中内閣が提唱した「日本列島改造論」で土地は高騰し、宅地開発、住宅建設がブームとなり、1974年には未曾有の195万戸という住宅着工戸数を記録しました。深川の木材企業は新木場に集団移転し、貯木場は輸入した原木で満杯状態となりました。
去る7月7日、新木場を舞台に、民放の人気番組「アド街ック天国」が放映されました。あれから38年、かつては満杯であった水面貯木場は閑古鳥が鳴いており、それでも僅かに貯木場を利用している企業があるのは意外だと云って驚いている人も居りました。これも時代の流れと云ってしまえばそれまでのことですが、木材は丸太の状態から製品、ベニヤ等で輸入され、水面貯木から、丘揚げとなり、水面は埋めずに建物から眺める景観として見直されております。東京ゲートブリッジも開通し、東京湾は大きく変貌を遂げようとしております。この機会に将来に向けて夢を語り青写真を描いて見るのも一興ではないでしょうか。我々のこの熱い思いは若い世代に託す他はありませんが、多くの苦難を乗り越え、必ず実現されることを固く信じて居ります。 |