東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(82)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 いつも通勤途中、地下鉄の売店で購入し、愛読しているミステリー作家 内田康夫氏著『日光殺人事件』の冒頭は下記のような設定でありました。イケメンのルポライター、浅見光彦氏は雑誌の編集長から、「明智光秀と天海上人は同一人物であったという説があり調べてまとめてほしい。」との課題を賜わり、調査して歩いているうちに、殺人事件に遭遇し、艱難辛苦の末、見事解決する、という筋書きでありました。今回は明智光秀と天海上人が活躍した時代を探訪します。

 「織田がつき、羽柴がこねし天下餠、すわりしままに食うは徳川」

 戦国の世の風雲児、信長は1560年、上洛途中の今川義元を桶狭間で破り、飛ぶ鳥を落す勢いでありましたが、天下統一の一歩手前で本能寺の変が起りました。光秀は、中国から大返しで戻って来た秀吉に山崎の合戦で破れ、逃亡途中農民に竹槍で殺された、と云われておりますが、光秀ほどの武将が農民に殺される筈はない、落ちのびて僧の姿となり家康と通じていたに違いない、という説もあります。僅かな供廻りだけで堺で遊んでいた家康を三河まで脱出させたり、家康が三代将軍家光の乳母として光秀の家臣の娘を抜擢し、後の春日局として大奥を牛耳るまでになったこと等、謎が秘められてはいませんか。

 秀吉は信長亡き後頭角を現しましたが、小田原城に北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げました。しかし朝鮮征伐の途上、命運が尽き家康はじめ五大老に後事を託して亡くなりました。家康は1600年、関ヶ原で石田三成率いる西軍を破り、江戸幕府を開きましたが、大坂城には、淀君、秀頼親子が居りました。

 家康は秀頼に秀吉の葬儀を盛大に実施するよう勧め、豊臣家が散財して勢力が減殺することを図りました。方広寺を大改修して葬儀は盛大に執り行なわれました。鐘楼も新装されましたが、鐘に刻まれた八つの文字、「国家安康」、「君臣豊楽」は安の一字で家康の分断をはかり、豊臣の繁栄を祈るものであると云い掛りをつけ、豊臣方は釈明に努めますが家康は納得せず、これが素で大坂の陣が起きました。入れ知恵したのが他ならぬ天海上人でありました。

 家康亡き後も、天海は上野に寛永寺を開基して、芝増上寺と並んで将軍家の菩提寺としたり、日光に東照宮を造営し、久能山から移葬して家康を権現様という諡(おくりな)によって称え、参道に杉並木を配しました。諸大名に命じて陽明門等、豪華な建造物を建て、全国から匠や木材を集めて建設し、伐採による環境破壊の埋め合わせに植えた杉が300年後立派に育って素晴らしい。

 初代将軍の代から、毎年捕らえられた鶴を正月の長寿祝の膳用に御用早飛脚で朝廷に献上する行事がありました。朝廷は返礼に臣下である江戸城へ下向するのは沽券に拘わるとのことで、中山道を倉賀野から左折して日光坊中へ向いました。使節が通る道を例幣使道と定め、両側に杉を植えました。今市で日光街道と例幣使道が交差しており、両方の杉がY字状に植えられている光景は圧巻であります。

 私が1994年、東海道を歩いたことがきっかけとなって、読売新聞の取材を受け、掲載されたことがご縁となり、東海道ネットワークの会に入り多くの会員と貴重な知己を得ることが出来ました。お誘いの電話を賜った飛澤さんは、インドネシアで合板工場に集塵装置を取付ける仕事をされていましたが、合い間にボロブドゥールの仏教遺跡を訪ね、五十三次のルーツは遠く仏教発祥から伝来に到るまでの過程にあるということを解明されました。

 奈良東大寺に納められている華厳経の末章に「入法界品」があります。これは、インドではスダーナと呼ばれ、釈迦の前世とも云われている善財童子が、獅子に騎乗した文殊菩薩に諭されて、二月堂でお水取りの業が明ける3月12日に出発し、27日目の4月8日に十一面観音にお会いして教えを授ります。順次聖人を訪ねて教えを乞い、最後に象に騎乗した普賢菩薩に邂逅して、善財童子の遍歴求法の旅は完遂します。天海上人は、「入法界品」を解明し、五十三の聖人を五十三の宿場になぞらえて、寛永元年(1624)東海道五十三次の宿場を制定しました。即ち五十三次を歩くことは仏の教えを求めることにつながり、国の繁栄を祈ることになります。

 家康の懐刀として、天下統一を実現し、250年間、平和な時代を実現する為に尽力した天海上人とはどのような人であったのか。私も機会があったらボロブドゥールの仏教遺跡を訪れて見たいと念じております。




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