南の「大孝門」よりどでかい「中正紀念堂」の側門から入場、すぐにエレベーターに乗り4階へ。どでかい広さの紀念堂内正面に「蒋介石」の銅像がデーンと座っていた。圧倒される広さと大きな6.3メートルの銅像と大理石の空間。天井には八角形のどでかい凝った彫刻にびっくり仰天。
こんなどでかい紀念堂をよくもまあ〜この小さな島国で作ったものだと感心やら、びっくりもしたのが私の第一印象だった。
階段を歩いて登ると89段あると言う。89段にしたのは、蒋介石の亡くなった年齢が数え年89歳だったためだと言う。しかし、実際には、もう1段あって90段あると言う人もいたが数えてないからわからない。
正面の「大中至正」の門から入ると本堂まで15分もかかると言うから、側門からガイドの案内で入ったが、この大中至正門の高さ30mもあってまさに、そびえていると言う感じだ。この「大中至正」と言う字は、“何事も中庸が正しい”と言う意味があるらしい。この巨大な正門のアーチ状の門を通ると、広大な公園広場がある。この敷地総面積は25万平方メートル(75,000坪)。日本統治時代の山砲隊、歩兵第一連隊の軍用地跡地であったと言う。この建物と言い、この敷地面積と言い、スケールの大きさに圧倒された。
正面から入って右側に「国家戯劇院」(オペラハウス)、左側は「国家音楽廰」(コンサートホール)そして正面には「中正紀念堂」が又デーンとそびえると言う表現が正しいか。この中正紀念堂の高さは70メートル、青い尖った屋根、白い大理石の外壁、赤い花壇の花。これは「青天白日満地紅」といい、中華民国の国旗を表していると言う。とにかく小さな国なのにやることはでかいと言う感じであった。
蒋介石(蒋中正)総統は中華民国の父。孫文(孫中山)の遺志を継承し、東征、北代及び8年間の抗日戦争を戦うなど、中華民国を現代化された国家に邁進させるため生涯にわたって奮闘したと歴史の回顧文に書いてあった。
蒋介石は1975年(日本では昭和50年)4月5日逝去されている。同年6月行政院は民間の寄付金と政府の拠出した資金を合せて「中正紀念堂」を設立することを決議、公用コンペにより、楊卓成氏の設計を採用したと書かれていた。
1976年(日本では昭和51年)10月31日、蒋介石生誕90周年記念日に着工式を行い、1980年(日本では昭和55年)3月に竣工、完成して同年4月5日に正式に一般開放したと書かれている。
この「中正紀念堂」の建設に関しての構想は、下記の通りである。
1 中華文化の精神を表現する。
2 斬新で創造的な設計で、独特の風格を備える。
3 現在建築の行程技術を効果的に応用し、同時に経済性と実用性も求めることを念頭におく。
※ このすべての建築は中華文化の風格が取り入れられ、参観者に荘厳さ、親しみやすさと平和的なイメージを抱かせていると言う。
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※中正紀念堂を遠望する。7万5千坪の広さにどでかい建物が3棟ある。高さ70メートルの紀念堂の壁は内外共島内でとれる総大理石を使用。すごい。 |
※紀念堂内の見取図両側にコンサートホールとオペラハウス、民主大道の奥に中正紀念堂。なんと広大な75,000坪の敷地である。 |
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※中正紀念堂裏の入門口。 |
※南側の大孝門、入門して中から写す。朝早かったせいか、観光客は少ない。 |
この「中正紀念堂」の建築の風格について資材よりふれてみる。
この紀念堂のホール本体の高さは70メートルで、四周の壁は台湾国土で産出した白い大理石を積み重ねて構成されている。八角形の青い瑠璃瓦の屋根を頂き、屋根は漢字の「人」の字の形をした八角が連なり、直接天空を指すことで、「天人合一」の中華文化を存分に表現していると言う。さらにホール前の赤い花壇を配することで、自由、平等と博愛の青天白日満地紅の精神を象徴しているのである。その宮廷式の建築は荘厳で、存分に中華文化の特色である美を表現しており、特に廡殿頂の国立オペラハウスと、歇山頂の国立コンサートホールが八角頂の紀念堂と三山並立の布陣を構成することで、雄大で壮麗な景観を形成して中国本土を意識しての建築である。
正面の広場は民主大道に沿って延びており、白い花崗岩の石段を登ると、その両側はそれぞれ89段の階段が連なっている。紀念堂は上下2層に区切られ、参観者を紀念堂の前に導いている。二つの大きな扉はレリーフを施された青銅の門で、高さ16メートル、重さ75tで、紀念堂の高い空間に重厚な質感を与えている。この間も圧倒された。
上階のホールには蒋介石総統の銅像が配されており、正面中央の壁面には蒋介石総統の遺筆、「倫理・民主・科学」が彫られている。
これは「三民主義」の本質であり、蒋介石総統の政治思想のエッセンスでもあると言う。
「倫理」とは民族主義の実践であり
「民主」とは民権主義の実践である
「科学」をそしてこの科学の方法で民主主義
を実践すると言うもの。
また両側の白い大理石の壁には「生活の目的は人類全体の生活の増進にあり、生命の意義は宇宙を継続させる生命の創造にある」と書かれていた。
これは蒋介石の生涯の奮闘の原動力となった理想を表していると言う。ホール内部の天井には、国章をデザインした大型の藻井が設けられており、より荘厳を与えている。
壁は内外とも白い大理石、天井のデザイン彫刻は、台湾桧で作られていると言うから、見事で見る価値も十分あった。とにかくすごかった。
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※大広間の中心、大空間である。衛兵の交代儀式の様子。静かな大広間に足音と、鉄砲を床に叩き付ける音がやけに響いた。 |
※大広間の天井、台湾桧の彫刻を八角形に形取った大天井。圧倒される見事な重圧感のある天井だった。 |
そして、衛兵交代儀式も見逃せない。
紀念堂内で1時間毎の正時に行われる衛兵交代、像に向かって、右側手前から、3名の衛兵が出て来る。中央が指揮官、その左右がこれから蒋介石の像を守る衛兵、足並みを揃えてゆっくり行進して行く。蒋介石の前に着くと、左右の衛兵が、動き始め、中央へやって来る。そして、交代する相手と向かい合い、銃を廻す、その動きがピッタリ合っている。いろいろ儀式の後そして交代完了、交代した衛兵は左右のポジションに、任務を終えた衛兵と、指揮官は退場する。静寂の中足音と銃を床に叩きつける音だけが響き、厳粛な気分になる。時間は約10分程だが、この様子の説明は表現の仕方が難しい。見た人はなる程と思う。とにかく移動の時の儀式以外はまばたきもなく1時間微動もしないのである。
この衛兵に就職するには大変難しく難関らしい。まず体重、身長、美形、行動等後ろから見ると全員同じ人に見える。
蒋介石について、もう少し詳しく記してみる。
中国の政治家、中華民国総統、字は中正。浙江省奉化県の由緒ある塩商の家に生まれる。郷里の学堂で学んだのち1907年(日本では明治40年)保定軍官学校に入学、1908年(明治41年)に日本へ留学して東京の振武学校(中国留学生のための陸軍士官学校予備学校)1910年(明治43年)に卒業、新潟県高田の野砲兵第13連隊に配属されている。留学中に、東京で「孫文らの中国同盟会」に加入し、1911年(明治44年)の辛亥革命に際しては「張群」と共に帰国して革命に投じたと言う。そして孫文の信用を得て、1923年(大正12年)、孫文の命令でソ連の軍事事情を視察後、翌1924年(大正13年)に黄埔軍官学校初代校長に就任したと言う。1925年(大正14年)の孫文死後は国民党二全大会で中央執行委員となり、同時に国共合作下の国民革命軍総司令に選ばれた。1926年(大正15年)3月、最初の反共事件としての中山鑑事件で政治的地位を強化、同年7月、北伐を開始したが、翌1927年(昭和2年)4月、上海クーデターを起こして反共攻勢に転じ、以後一貫して共産党を攻撃した。
1928年(昭和3年)、南京に国民政府を樹立して主席となって以来、国民党内での汪精衛などとの対立など紆余曲折もあった。
1937年(昭和12年)の日中戦争で政府を重慶に移したのちの抗日戦争中もしばしば反共政策を断行している。
1945年(昭和20年)、抗日戦争勝利後は重慶で毛沢東との国共和平交渉に臨んだが、翌1946年(昭和21年)には再び国共内戦が勃発、1948年(昭和23年)には新しい憲政下の初代総統に就任する。1949年(昭和24年)1月一旦辞任するが同年大陸を失陥し国府軍の残党と共に台湾へ脱出した。1950年(昭和25年)総統に復帰。以後、台湾での統治には意を用いつつ反共復国を目指し、アジアの代表的な反共政治家として活躍した。
1975年(昭和50年)4月5日台北で死去した。
彼の独裁を非難する声と共に、第二次世界大戦終戦に際し「暴に報ゆるに怨をもってせず」と放送して日本軍の降服を受け入れたことを評価する声も高いと言う。1927年(昭和2年)、それまでの妻と離別して、浙江財閥出身で孫文婦人(宋慶齢)の妹、宋美齢と結婚した。前妻の産んだ長男の蒋経国が総統の地位を継いだと言う。
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※身動き、まばたきなしの1時間。人間と思えない仕種である。長身で若く、均整のとれた体格は立派だ。 |
※交代儀式の風景であるが、約10分かかる。これも観光の目玉らしい。 |
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※衛兵の交代劇を3枚の連続写真に写すとこんな写真になった。正面の蒋介石のブロンズ像の高さは6.3m。
2人の衛兵が守護しているが、交代の時のセレモニーである。
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台湾は九州に匹敵する島(国)だが、いろいろな資源、環境、自然など豊かな島(国)である。日本が昔支配した事もあって昔の建物や風習は似たところもあり、台湾の人達は親しみやすさが感じられた。
台湾には山岳地帯が大変多くあって山水資源は豊かな「高山島」として世界的に知られる島と言う。なんと3千mを超える山が144峰もある。そして、玉山(新高山)は日本の富士山より高い。果物も大変豊富で大変おいしかった。中国本土と競ったせいもあると思われる建物の規模、中国本土から持ってきたと言う国宝など台湾の財産、自然環境、台湾人の前向きな考え方、4〜5日滞在しただけでは判断は難しいが、人々が勤勉で力強さを感じた今回滞在の感想である。
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※一階の大ホールには蒋介石のあらゆる遺品が集まっている部屋の数々。台湾は九州ぐらいの島だが、この建物はでかい。 |
※蒋介石の執務室。広々とした空間に本人そっくりの人形。軍服を着ていた。 |
参考文献
中正紀念堂パンフ
ヤフー 百科事典
『日本史年表』 岩波書店
平成25年4月7日 記
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