東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(90)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 6月19日、文部科学省は、ユネスコの「世界記憶遺産」に、400年前仙台藩主伊達政宗がスペイン等に派遣した使節に関する「慶長遣欧使節関係資料」が登録されることになった旨発表しました。
 皇太子殿下は、支倉常長ら180名の使節がヨーロッパへの旅立ち400年を記念して、スペインを表敬訪問され、大歓迎を受けました。案内役は常長の末裔で13代目当主支倉常隆氏が務めました。
 今回は歴史を400年遡って、日本とスペインの交流について探訪します。
 天川様から頂いた資料によりますと、1611年に慶長大津波があり、東北一帯は疲弊しておりました。伊達政宗は、貿易によって復興を加速させる意図があったようです。
 西欧では、1492年コロンブスが米大陸を発見、1515年マゼランが世界一周に成功する等、大航海時代の幕開けで、16世紀はスペインの時代、17世紀はフランス、18世紀はイギリスの時代と云われました。
 一方日本では、1541年、種子島に鉄砲が伝来しました。相次いで、キリスト教布教にやって来た宣教師を手厚く保護した信長は彼等から西洋の事情を聞きます。信長は「地球は丸い」ということを理解した最初の日本人でありました。鉄砲を大量に採り入れて戦国の世を征し、天下統一の野望は秀吉、家康に引き継がれ、1603年江戸幕府が開かれ、以後250年平和が続きます。
 伊達政宗も天下統一を夢見た武将の一人でありました。天下は徳川家の手に落ちましたが、政宗は世界に向って隻眼を大きく見開き、支倉常長一行を派遣したに違いない。
 人(一)の無策(六 三九)が国を閉じ。1639年、徳川幕府は鎖国令を発布します。若し日本が鎖国をしなければ、西欧諸国と交流を続け、科学、文明を採り入れ、今の世界は大きく変っていたかも知れません。
 私は1960年頃、沖縄を訪問したことがあります。当時の沖縄は米国の統治下にあり、貨幣はドルが流通して居りました。20歳の眼で見た珊瑚礁に彩られた青い海の色は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。初日は友人宅がある那覇に泊り、二日目は南部の戦跡巡りをしました。観光バスで糸満を通ったとき、ガイド嬢から次のような説明がありました。「昔、英国から来た漁師が漂流してここに住み付きました。現地の女性と結婚して、漁で生計を立てましたが、生まれた男児は屈強な体格を持つ漁師となりました。漂流して住み着いた8人の男に因んで、町の名は「エイトマン」→糸満となったそうです。
 スペイン南部のセビリア近郊にあるコリア・デル・リオ市、人口3万人弱の街に「ハポン」姓を持つ人が600人ほど居ります。支倉常長一行のうち、現地に残って「ハポン」姓を名乗った藩士らがいて「サムライの末裔だと信じられている」という記事を見て、沖縄での体験を懐かしく思い出しました。
 コリア・デル・リオ市では、公園に支倉常長像を建て、鳥居で飾り、住民は日本とのつながりを強く意識して居ります。
 2011.3.11東日本大震災に際しましては遥か1万キロ先の親類に向けて「こちらに避難したい人には市民権を与えます」という何と温かいメッセージが届きました。震災の日以降、コリア市には半旗が翻り、川沿いに建つ常長の像には花や祈りを捧げる市民が絶えなかったそうです。
 一方、使節を乗せて船出をした石巻港には木造帆船「サン・フアン・バウティスタ号」の復元船が係留されておりましたが、津波の襲来で破損しました。しかし、出航400周年までに、何が何でもとの思いで博物館と共に復旧を目指しております。
 今年の9月7日に、2020オリンピックの開催都市が決定しますが、最後まで日本とスペインが競っているのも、400年前から続いている縁(えにし)ではないでしょうか。
 ところで、天川氏のご見解は如何に。
「ここは400年以上前から文明の先進国であったスペインに譲るべきだ」と仰るのでは。
 後掲の写真は、天川氏のお嬢さんのご主人がボランティアで石巻に出向して撮影した、「被災したサン・フアン・バウティスタ号と博物館」(2011.6)を頂きました。





サン・フアン・バウティスタ号 2011年6月撮影



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