『歴史探訪』(92)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
先日、東海道ネットワークの会21より、例会が「東海道どまん中、遠州袋井5つの古刹巡り」と銘打って実施される旨、お知らせがありました。袋井宿は日本橋から数えても、京都から数えても27番目に当たります。ど真中の宿と云われる由縁ですが、袋井立宿の経緯については先月号で述べましたので省略します。東海道にかくも有難い由来があることも知らずに20年前歩き始め、約10ヶ月かかって京都に辿り着き、翌年不思議な縁で東海道ネットワークの会に入会し、諸先輩のお導きにより多くのことを学ぶことが出来ました。
例会ではほとんどの宿場を訪ねましたが、宮宿は熱田神宮から陸路で佐屋街道を桑名まで行ったり、草津宿から少し中山道方面を覗き見する道中等が特に好評で、企画する幹事諸氏の機転と研鑽には頭が下がります。
今回は過去20年を振り返って、印象に残った道中について回想します。
その@ 箱根
H6. 6. 27 日本橋を出立、大森、神奈川、戸塚、藤沢、大磯、小田原と日帰りで尺取り虫のように歩き継いで7日目旧街道を汗をかいて登り、3時頃元箱根の湖畔に着きました。それまで箱根は車でしか行ったことがありませんでした。ところが、景観の素晴らしさや、先人達が流した汗がしみ込んだ石畳道に魅せられて、以後は家族で、温泉、金時山登山等あらゆる遊歩道を歩き、年取った現在は、プリンスホテルから湖尻まで平坦な遊歩道の往復6粁の散策を楽しんでおります。8月の盆休みは、2泊して、強羅公園から初めて大文字焼を眺めることが出来ました。
そのA 友人の菅原画伯を誘い出すことに成功
原駅前の木賃宿風の旅館に泊まりました。
翌日は田子浦を経て道に迷い、雲間に見え隠れする大きな富士山を眺めながら、岳南鉄道の須津(すど)と云う無人駅に着きました。画伯はここで道中初の名作をものにしました。岳南鉄道は、当初は吉原─沼津間に開通の予定でした。製紙工場へ通勤する工員さん達の足となっておりましたが、バイク通勤者が増え、東の方は岳南江尾と云って新幹線の高架の近くで終点になっており、私達の他に乗客は老婦人一人しか居らず、いずれ廃線になるであろうと思っておりました。ところが、10年程前、ネットワークの会例会で乗ったときは、NHK大河ドラマの主役山本勘助一族の墓が沿線のお寺で発見されたり、近くの竹林が『竹取物語』の舞台になっていたことが分かり、電車は、勘助号、かぐや姫号等と命名されて大変賑っておりました。
そのB 東海道番外編
SLを追いかけ秘境の温泉に浸る。島田駅で降り、木製で日本一の長さを誇る逢末橋を大人一人20円の料金を払って渡り、茶畑の中を歩いておりましたら、大井川の鉄橋を煙を吐いて渡っているSLを見掛け、胸騒ぎを覚えました。金谷駅からSL見たさに電車に乗り先頭駅まで行きました。先刻見たSLはここで折り返しになり金谷駅に向けて出発する処でした。蒸気機関車と四両連結の客車の中を見せてもらった二人は、予定を変更して、尚も大井川鉄道を遡り、接岨峡温泉駅で降り1泊することになりました。近くにある寸又峡温泉は、もっと昔(昭和40年頃)金嬉老という人が人質を連れ込んで立てこもった事件で有名になりました。翌日は小夜の中山で雨に降られずぶ濡れになって掛川駅に着きました。
そのC 疑似七里の渡しコースを往く
江戸時代、宮宿から桑名宿まで、七里の渡しと云って船便がありました。それに近いルートはないものかと問い合わせた処、以下のような首尾となりました。宮宿、熱田神宮に詣でた後、名鉄で知多半島を南下し、尖端の河和(こうわ)駅で下車、船便で目と鼻の距離にある日間加島へ渡ります。島は歩いて30分程で1周できる大きさで、砂浜で波を枕に昼寝していると、夏休みの間だけ運行している50人乗り位の船が来て、四日市港まで約90分の船旅を楽しむことが出来ます。
今年の3月、東海道ネットワークの例会で宮宿から佐屋街道と云う陸路を往く企画がありました。長島温泉に1泊し、翌日は桑名市内を探索し、七里の渡し跡を見たとき、広重の名作『桑名』で見た城が無いことに気付き戊辰戦争で焼け落ちたとの説明を受けました。その時まで、初代藩主本多忠勝が築いた桑名城は私のイメージの中だけで存在して居りましたが、以後まぼろしの桑名城となりました。
そのD 中山道木曽11宿を往く
「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨伝いに行く崖の道でありあるところは山の尾をめぐる谷の入口である」これは島崎藤村著『夜明け前』の書き出しである。中山道は日本橋を起点に69宿を経て京都に着きます。H7. 6. 17、日本橋を出立、33宿を経て木曽までやって来ました。東海道492粁に対し、中山道は約550粁あり、山道が多い。NHKの女子アナが、旧中山道を「イチニチジュウヤマミチ」と読んだという嘘のような本当の話もあります。中山道を木曽街道とも云い、木曽11宿は贄川から馬籠までであります。画伯の贄川での作品が「ぶらり中山道旅日記」の表紙を飾りました。
画伯と前日松本に泊り、前回の最終地点JR洗馬(せば)駅を下りて歩いて行きますと、後から我々を追い越して行く車があり、先へ行って止まり、私達の木曽入りを歓迎するかのように両手を大きく振りながら近づいて来る人がありました。大学時代の友人長岡氏夫妻でありました。長岡氏は須原宿の出身で、当時某スーパーゼネコンに勤務され、その日はお母さんの92才の誕生祝にご夫妻で駆けつける途中のハプニングでありました。2、3日前電話で話したとき、私達の予定を告げましたら、見事に街道で邂逅することが出来ました。
その日の宿奈良井宿は、宿場当時から奈良井千軒と云って大変賑わっておりました。数年前、NHKの連続ドラマ「おひさま」の舞台となり、長野に住んでいる長男を誘って行ったときも大賑いで、町営の駐車場がパンク状態でありました。翌日、藪原を経て宮越で終了して帰りました。宮越は木曽義仲旗上げの地です。次回は、宮越から木曽福島と独りで歩き、木曽のかけはし跡を見て上松から電車でひと駅乗り、須原駅で長岡君の出迎えで、その夜は大歓迎を受けました。秋も大分深まり木曽道中は野尻宿で終了。春まで雪に閉ざされます。翌年3月、近くに住む友人K氏を誘って野尻宿から再開、三留野宿を経て妻籠宿に泊り、馬籠まで木曽11宿は2年越しの道中となりました。名所寝覚の床は電車の中からチラ見しただけで、数年前、長男と妻の3人で夏休みに出掛け、初めて見ることになります。
そのE 日光街道杉並木を往く
東海道は大磯の松並木、箱根芦ノ湖畔の杉並木が素晴らしい。舞坂宿、御油宿の松並木も美しい。中山道は芦田宿から長久保宿へ向う途中、雁坂峠には、かつて徳川幕府から下付された753本の赤松の苗木が植えられ、今は100本程が残って美しい並木となり旅人の往来を見下しております。しかし、日光街道大沢宿から東照宮に到るまでの杉並木は五街道一、或は日本一の景観を誇っていると云っても決して過言ではありません。中でも私の好きな箇所は、上州の高崎、倉賀野方面から例幣使街道がやって来て今市でV字状に交差しており、両側の並木がW字状に交っている処であります。
そのF 白河の関小峰城を往く
東照宮にお詣りした後、宇都宮から奥州街道を行きます。当初奥州街道は青森まで続いていると思っておりましたが、江戸幕府が決めた街道制度によりますと、奥州街道は白河までとのことで、五街道の最後を甲州街道で飾るべく下諏訪から日本橋を目指します。
そのG 甲州街道猿橋を往く
甲州街道を、下諏訪から芳野、韮崎、甲府、大月と歩き、猿橋にやって来ました。
昔、猿が谷を渡る際、手をつないで1本の縄状となり、揺らして越えたのを見たことがヒントになり考案されました。力学的にも理に叶っており、自動車を支える積層バネを作る為、メーカーの技術者が来て参考にしたそうです。この辺りは桃の産地で、近くに猿橋鳥沢、犬目があることから、桃太郎伝説があったと云われております。
以上、1994年2月から約6年かけて、1999年暮れに日本橋に戻って参りました。
21世紀を迎え、私は日出度く還暦となりました。
次回は、大学卒業50年を記念して、仲間が集まって行う隅田川12橋巡りの報告と、先日決定した、2020東京オリンピック開催に向けて、輝く日本の未来を展望します。
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