11月2日、東海道ネットワーク例会があり、「東海道どまん中……遠州袋井五つの古刹巡り」と銘打って実施されました。台風27、28号が接近し、当初10月26日の予定が1週間日延べとなりましたが、私は早合点して、中止になったものと勘違いし、11月2日の朝まで気が付かず、幹事の杉井氏に確認し、あたふたした挙句、妻に新横浜まで送ってもらい事無きを得ました。
今回は、約20年前から現在まで、掛川周辺の道中を回想し歴史探訪をします。
平成6年2月、日本橋を振り出しに東海道中を始めました。掛川から浜松までを歩いたのは、猛暑の7月で、約30粁を炎天下、汗をかきながらひたすら歩きました。見付宿の辺りから、浜松駅前に建設中の超高層ビルが、ビールビンのような形状で見え、一体あれは何だろう、と訝りながら歩き、全容が確認できたのは、天竜川の手前でありました。
途中通過した見付宿は、西から来た旅人が初めて富士山を見付けたことから命名されたと聞きますが、東を振り返っても、真夏の空は、熱気を含んだ靄で、見ることは叶いませんでした。天竜川に架かる橋は交通量が多く、しかも歩道がありません。猛スピードで走る車を避けながら、命からがら渡りました。
翌週の7月16日、萱原画伯と浜松から新居宿に一泊し、吉田宿まで歩きましたが、沿道だけでなく、内陸部も見ようと、掛川駅で降り、遠州鉄道に乗りました。二両連結の私鉄は、6つ目の遠州森駅で終点になり、次の電車が来るまで、木造の駅舎で30分待つことになります。画伯はホームのベンチでスケッチを始め、電車待ちのお年寄りグループが寄って来て注目の的になっております。時々歓声が上がるのは、促されて、スケッチブックをめくり、前の作品が現れた時の感動の声だ。私は駅前の案内板を見て、遠州三山について知りましたが、まさか20年後に見ることになるとは、お釈迦様でも……。
平成18年11月18日、東海道ネットワーク例会が、「高天神城と横須賀城、掛川城など遠州路を訪ねる」と銘打って実施されました。当時はNHK大河ドラマ「功名が辻」が大好評で、掛川城は賑わっておりました。主人公 山内一豊は、戦国の世を強く生き抜き、信長、秀吉、家康と主人が代わる度に出世を遂げ、幕末まで家が続いたのは、内助の功で支えた妻千代の尽力が大きかったと称えられておりました。その時知ったことですが、今では珍しい、木造で掛川城がリニューアルされた陰には、千代に勝るとも劣らない一女性の力がありました。掛川市長がある年配の女性と対談していたとき、「市長さんは何が欲しいですか」と訊かれ、軽き気持で「城が欲しい」と仰った処、「それでは私が出しましょう」と云って、ポンと10億円を寄付されたそうです。それを元手に市民からも寄付を募り、見事、今の掛川城が完成しました。
前置きが長くなりましたが、11月2日、10時に22名の会員が掛川駅北口に集合しました。
遠州三山とは、可睡斉、油山寺、法多山尊永寺ですが、順路に従って探訪します。
@ 日蓮ゆかりの妙日寺 |
「日蓮大菩薩御先祖古跡」の石碑が建っております。日蓮の両親はここ貫名の出身で、井伊家より分かれ、この地を支配した4代目で、両親が修業で千葉へ行ったとき、日蓮が生まれました。誕生寺として有名で、千葉小湊では魚の漁を禁止にした為、今でも小船で沖へ出て手を叩きますと鯛が寄って来ます。名所鯛ノ浦と云われる由縁です。日蓮は鎌倉へ出て辻説法等過激な布教の為、一時島流しになりましたが、蒙古襲来の危機に許されて戻り、撃退の大きな力となりました。思親殿には日蓮と両親の木像が安置されています。 |
A 可睡斉 遠州三山の一 |
応永8年(1401)如仲天求iじょちゅうてんぎん)禅師によって開創された曹洞宗屈指の名刹 創建時は東陽軒が寺号でありました。火伏せの神として崇められている秋葉三尺坊大権現のご神躰が安置されています。
ここでお昼となり、現住職の有難いお話を賜りながら精進料理を戴きます。
昼食後、エスカレーターで本殿に上がり、何故東陽軒から「可睡斉」に改められたかという故事来歴についてお話を賜りました。
11代住職 仙麟等膳和尚は、徳川家康が竹千代と云って、今川家の人質となっていたときの教育係を勤めておりました。賢い竹千代を世に出して活躍させたいと願っていた和尚は、厳しい監視の目を掻い繰って、海から舟で脱出させます。桶狭間の戦で今川氏が織田氏に敗れ、28才で晴れて浜松城主になった折、報恩のため城に招かれた席で、和尚は居眠りを始めましたが、家康はこれを咎めず 和尚の親愛の心を悟り、「和尚睡る可し」と云ったそうです。当山は以来「可睡斉」となりました。その後10万石の待遇と徳川幕府最初の僧録司として、伊豆、駿河、遠江、三河を統べるようになりました。
食事の後、長いお話で居眠りをする会員もおりましたが、副住職は寛容な方で咎められることはありませんでした。
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B 油山寺 遠州三山の一 |
大宝元年(701)行基が万民の無病息災を願って薬師如来を祀った事に始まる。山門は(国重文)旧掛川城の廃城を受けて移築、女帝孝謙天皇(718-770)の眼病の際、境内の瑠璃の滝の加持祈祷された水で目を洗ったところ快癒したことから、眼病に効く治療の寺として有名。境内の三重塔(国重文)は源頼朝が眼病快癒のお礼に建久元年(1190)に建立。
秋葉会長は黄斑という眼病に罹っておられノーベル賞の山中先生が発明されたIPS細胞に期待されていますが、治療法が開発されるまで皆さんと一緒に歩いて体力を保ち、当山の水で洗って頑張りますと仰っておりました。 |
番外 |
東海道ど真中茶屋 当会の人気者青島政夫さんは、袋井宿の観光ガイドとして活躍されています。背中に「健康優良ジジイ……」と染め抜いたシャツを着て、ボランティア12人と交代で東海道を歩く人の接待をされています。幹事の杉井氏と携帯で分刻みのスケジュールを訪問先と連絡をとり合っておりましたが、バスが着くと、22人分のお茶を用意して迎えて下さいました。
袋井宿は、家康の政治顧問、天海上人が53の宿場を定め、日本橋を出立した善財童子がど真中の宿場で4月8日、釈迦の誕生日に十一面観音と邂逅する設立になっておりました。(1616 50番目に立宿)400年の時空を越えて立宿の精神が脈々と受け継がれており、素晴らしい「おもてなし」でありました。 |
C 法多山 遠州三山の一 |
本日最後の目玉です。神亀2年(725)行基によって開かれる。山門は(国重文)寛永17年(1640)入母屋造り柿葺で建立。途中の黒門は宝永8年(1712)建築の静岡県指定文化財。観音名物団子を登城の土産に付け、将軍家より厄除け団子として親しまれた。明日、11月3日は全国から名物団子が集まり団子祭りが開催されます。輿の本院は石段を100段以上上った山の上にあり、コンクリート造に改築されたので、余り有難味がなく、また掛川駅17時の予定もあり、茶店で一皿200円の厄除団子を戴いて、夕闇迫る中帰途につきました。 |