東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其の15

花 筏


〜木場歳時記〜

其の四 初詣、イロハ三態

 初詣にはもの心が付いた頃より毎年欠かさず出掛けて、カランコロンと凍りつく夜のしじまに朴歯の音を響かせていたが、近頃は善男善女が多くなり、神前にロープを張り参拝…賽銭投げ…の制限をする程になって来たので、高下駄での参上は危険と思い遠慮をしているが、本当は歳のセイかも知れぬ。
 初詣での人種もこの数年、どういう訳かハタチ前後の若者が著しく増えて来ている。この連中は大半がカップルで手に手を重ね嬉々として大混雑の渦の中に突入して行く。その押しくらマンジュウの中での嬌声も、大変に派手派手で一瞬ギョッとする程である、今流行のゲーム感覚のノリである。サッカーの次のラグビーの先取りなのかも知れない。勝手に「フラレタガリーのフレタガリ症候群」と命名したが、正に、人が人を呼ぶ原点はココに有り、の学術的証明でもある。一方、拝殿の内では古式ゆかしく笙、篳で新年を寿(ことほ)ぎ頭(こうべ)を垂れている人も居り、この両者のアンバランスさは平和国家ニッポンの現代の素顔を見事に現わしていて大変に興味深いものがある。
 そもそも深川(旧木場)には、二ケ所の初詣のメッカ?が御座る。


イ、富岡八幡宮

 寛永4年(1627)、家康の江戸入りより遅れること37年、京都(一説には摂津=大阪)より長盛上人という二職(神職十僧侶)の富岡氏が自家の屋敷神…産土神とはチト違う…である、弘法大師作という八幡大菩薩の像(菅原道眞作との説も有るが不明、この像は火災にてとっくの遠うに消滅)を担いでエッチラ・オッチラ江戸まではるばる下って来た。
 当時の江戸は未だ揺藍期で武家地と寺社地で全体の85%を占めていて、残りの15%がその他大勢の地ベタのため気のきいた場所は残ってはおらず、そこで、当時は「川向う」と呼ばれ、葦がボウボウの砂洲にてボチボチ開け始めたばかりなりし下総国葛飾郡(ごおり)葛西の永代島に目を付けた。橋もまだ無いので小船(猪牙のはしり)で大川(隅田川)を渡り、スタコラ歩いて深川を通り越し適当な場所へ八幡神像を祭った。
 ところで、江戸の三大祭りとは、
※日枝神社。赤坂、御輿が江戸城の中にまで入ったので当時は天下祭りと称した。御輿は担ぐが白装束に威儀を正し至って静か、氏子の範囲には銀座の一部も入る。
※神田明神。神田、平将門が祭神、江戸の庶民には人気があり威勢の良い御輿が出る。将門の首はアチコチに飛んだ様で近くの大手町にも首塚があり同祭。
※浅草(三社)神社。ご存じの浅草の三社様で現在での知名度は一番高いかも知れぬ。御輿の掛け声がソイヤソイヤで深川のワッショイワッショイとはチト違う。
 ※この三つに深川を入れると四つになり、一つ多いのだがその時代の土地土地の盛衰と庶民の人気で組合せが微妙に入れ替わって来たと言うのが正しい見方であろう。
 本来は、初めの二つは確定、あとの一つを観音と菩薩で争った、と言うのが正解との事。ほんまかいなー。次の出番は「深川不動」、その他にて候。(つづく)

 

富岡八幡宮
出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/
 

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