東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.167

〜歴史探訪 一人旅〜
オスマン帝国の軍艦(トルコ)「エルトゥールル号」
和歌山県串本沖で1890年(明治23年)沈没の悲話

青木行雄
※駐日トルコ共和国大使館正面玄関。当日は自由に入ることが出来た。
※「エルトゥールル号」展のパンフ。大使館・大使公邸となっている。入場無料であった。
※大使館の中の展示場の入口。警備は厳重ではなく、案内人が2〜3人いたが、親切に説明してくれた。
※当時のエルトゥールル号の写真。500人以上乗れる軍艦であるが、かなり傷んでいたらしい。横浜港停泊の風景か?
※エルトゥールル号の座礁した樫野崎の岩礁である。この先に灯台があると言う。
※串本沖にある「記念碑」新しく建設された碑である。
※授業が終った後に生徒代表より感謝の言葉を受けた時、ジーンとする気持ちがこみ上げて来た。
 

 渋谷区神宮前に駐日トルコ共和国大使館がある。この大使館で平成25年11月に「エルトゥールル号展」が開催された。
 1890年(明治23年)オスマン帝国の軍艦「エルトゥールル号」が和歌山県串本沖で台風に巻き込まれ遭難し、500名を超える犠牲者を出す未曾有の大惨事が起った。この事件を切っ掛けにトルコと日本の強い絆は今も続いている。
 この「エルトゥールル号展」は海底から引き揚げられた船の部品や品々など貴重な品物や写真等が展示され、改めて当時の様子がありありと振り返らされた。
 大変感動した私はこの悲話を少しでも日本の多くの方に知ってもらいたいと考えていた。また私の知人が昨年「トルコ」に行って来た話を聞くと、小さな子供までこの話を知っていて(教育を受けている)、日本人に対する感謝の心が今でもトルコの人達にはあると言うのである。
 そして、比田井和孝・比田井美恵両氏の著書『奇跡の授業』の本に対面し、又々感動した。
 私の卒業した高校「大分県立中津南高等学校」が創立120周年を迎え、記念事業として卒業生が在校生に授業を行う「里帰り授業」が行われた。
 偶然にもこの時この「トルコ船の沈没」の話をする機会が廻って来たのである。
 私の受けた感動を生徒達にいかに伝えるか心配はあったが、こんな「演題」で話を進めることにした。
 「時空を超えた、恩返し」
 歴史から学ぶ「与える心」が起こした奇跡を皆様にお話ししたいと思います。
 1890年、明治23年のこと、オスマン帝国、現在のトルコ共和国の船、エルトゥールル号が、折からの台風による強風にあおられ、紀伊大島の樫野崎の岩礁に激突、沈没するという大惨事が起こりました。
 エルトゥールル号というのはトルコの軍艦ですが、日本に戦争をしに来ていたわけではない。友好的な外交目的で日本に来て、横浜港に停泊して、帰国する途中の出来事でした。
 実は、日本政府は「今は台風が来ているから」と出港を止めていたと言います。
 しかし、事情があってエルトゥールル号は帰らなければならず、この日、横浜港を出港しました。
 そして、案の定、台風にまともに合い、紀伊半島の先端紀伊大島という小島の岩礁に座礁して沈没したのです。
 乗組員の殆んどが海に放り出され、587名もの方が死亡。又は行方不明になりました。
 だけど、中には一命を取り戻した乗組員も居て命からがら、40メートルもある崖を必死で登って、灯台守に助けを求めました。
 灯台守は大変驚きました。時は明治23年。田舎のことですから、外国人なんか見たこともありません。
 目の前にでっかい外国人が現われて、全身血だらけ、傷だらけ、服はボロボロ、灯台守はびっくりして、「大変だ、大変だ」と当時の大島村の人達を大急ぎで呼びにまわりました。
 小さな島ですから、人は少ないが40〜50軒の民家の住民達をかき集めて、救助に向かいました。
 みんなで海岸に降りると、船の破片と夥しい数の遺体に仰天しました。
 村の人たちは大変悲しみ泣いたそうです。遠い国から来て、日本でこんな冷たい海で亡くなるなんて・・・。
 中には、僅かに息をしている人もいましたが、体が冷え切っています。大島村の人達は急いで自分の服を脱いで、その人達を抱きしめ、自らの体温で温めてあげたそうです。
 そして、まだ命があった69人の人達を小学校やお寺に収容して看病しました。食料も服も与えました。これが心からの「与える心」であります。
 でも大島村というのは小さな漁村です。あいにく台風の時期で、食料があまり蓄えていません。今と違って貧しい時代です。当然、冷蔵庫も無ければ、缶づめなどもありません。そこへ来て、いきなり69人もの人の食料は、僅か40〜50軒の村では、すぐに底をついてしまいました。
 村中の食料を全部与えましたがそれでも足りませんでした。
 どうしようか・・・と困り果てていた時に、あの「にわとり」を食べさせるしかないという声が出ました。
 大島村では、この村に何かあった時のために、非常食用としてにわとりを飼っていました。村の人達が大切に大切に育ててきた、最後のとりでとも言える「にわとり」です。
 そんな大事なにわとりでしたが、大島村の人達は「人の命には代えられない」と乗組員達に、全部食べさせてあげたのです。与えまくりました。
 更に翌日には、和歌山県知事を通じて当時の明治天皇にこの連絡が入ります。明治天皇はたいそう悲しんで、すぐに、日本政府を挙げて救助に向かいました。
 救助と言っても殆んどの方が亡くなっています。それでも、たくさんの遺体を何日もかけて引き上げ、丁重に埋葬してあげました。更に日本政府は、生き残った69人の乗組員たちを数ヶ月後に「金剛」と「比叡」という2隻の軍艦でトルコに送り届けてあげました。日本中から集まったたくさんの義援金も渡したといいます。
 大島村の人達は、本当に素晴らしいことをしたと思います。
 でも大島村の人達がたまたま親切な人達ばかりで、たまたま人間性が高かったからできたんだとは思いません。当時の日本という国は、そういう国だったんだと思うのです。
 暮らしは貧しかったかも知れないが、でもみんな、思いやりの心を持っていて、困っている人がいれば助けてあげる・・・。それが当たり前の国だったと思うのです。

 話は変わります。
 時は過ぎて、それから約1世紀たった95年後の1985年(昭和60年)イラン・イラク戦争が勃発しました。
 この時、イラクの当時の大統領、サダム・フセインがとんでもないことを言いだしました。
 「今から48時間後にイラン上空を飛ぶすべての飛行機を、撃ち落とす」と宣言したのです。民間機、軍用機、関係なく撃ち落とすと。ありえません。とんでもないことです。
 当時イランには、外国からたくさんの人達が仕事やいろいろな事情で来ていました。この宣言が出ると、世界各国はビックリして、一刻も早く自国民を助けなければと、イランにドンドン飛行機を飛ばして、自国民を連れて帰りました。
 リミットが迫る中、日本人は215人が未だイランに残されていました。けれど、この時、日本政府は出遅れたのです。
 こんな危険なところですから、自衛隊機を飛ばせばいいのですが、憲法第9条があって、当時、自衛隊は海外へ行けなかったようです。
 そこで日本政府は、国内のある民間航空会社に飛行機を飛ばして欲しいとお願いします。日本人を助けてくれないか。
 ところが、その会社からは「自衛隊も飛べないような危険な場所に、何で民間人を行かせるんだ」と反対の声が出ました。
 揉めに揉めているうちに、タイムリミットは迫るばかりでした。
 他の国の人達は、皆、自国の飛行機が迎えに来て、次々とイランから飛び立って行くのに、日本人だけまだ飛行機が来ない。単身赴任で、日本に家族や子供達を置いて来ているお父さんもいっぱい居たと思います。
 「もしもこのまま助けが来てくれなかったら、自分たちは殺されるかもしれない」と、残された日本人はパニックになりました。
 だけど、そのタイムリミット48時間の僅か1時間15分前に、テヘラン空港に2機の飛行機が降り立ちました。
 そしてすべての日本人を乗せて飛び立ってくれたのです。
 「ああ、これで生きて日本に帰れる─」と日本人達は大変喜びました。
 でもこの飛行機、実は、日本の飛行機じゃなかったんです。
 ターキッシュエアライン、トルコ航空の民間機でした。(ここまで話すといつも自分でも涙が出てきます)
 なぜトルコの飛行機が日本人を助けてくれたのでしょうか?
 元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカンさんはこう語ったそうです。
 「95年前のエルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人達は忘れていません。
 トルコでは子供達でさえ『エルトゥールル号』のことを知っています。
 それを知らないのは、日本人だけです。」
 実はこの時、日本政府はどうにもならなくなって、トルコに飛行機を出してくれと頼んでいたのです。
 トルコ政府は、二つ返事でOKしたそうです。
 でも飛ばすのは民間機でしたので、航空会社がパイロット達を集めて、有志で行ってくれる人を探しました。
 「これから日本人を助けるために飛行機を出さなければならない。すごく危険なところだが、誰か行ってくれる人はいないか?」
 「私が行きます、私も行きます、私も、私も・・・。」
 「日本人を助けるためだったら、喜んで行きます。」
 そう、何人ものパイロットが手を挙げてくれたそうです。うれしいですね。感動です。
 日本人は、日本人を助けることが出来ませんでした。危険だからという理由で、飛行機を出せなかったんです。
 その場所にトルコの人達は、二つ返事で飛行機を出してくれたのです。

※トルコの人たちは、自分達の先祖が受けた恩を忘れていなかったのですね。

 このエルトゥールル号の救助に関わった人達は、トルコの飛行機が飛んだ95年後には生きていません。でも、もしもこの人たちが、95年後のことを知ったら、どれだけ嬉しかったでしょう・・・?どれだけ誇りに思えたでしょうか?
 「もちろん大島村の子孫達は、自分達の祖先はすごかった。おじいちゃん、おばあちゃん達はすごかった」と誇りに思っていることでしょう。
 そして、自分達もそんな生き方をしようと思っているのではないでしょうか。
 現在も、この地で、日本とトルコは共催で慰霊祭を5年おきに行っているそうです。
 もちろん日本は歴史上、外国に迷惑をかけたこと、間違いを犯したこともありました。
 だけど、こういう素晴らしい生き方をした人達も、いっぱいいるのです。
 実は、この話はまだ続きがあります。1989年(平成元年)にトルコ大地震があった時には、トルコ航空で助けられた商社マンや銀行マンたちが、すぐに義援金を集めて寄付したそうです。

※与える心は、与える心を呼ぶんですね。時を超えて、繋がっていくんですね。

 この話は以上ですが、皆さんはいかが受け止めましたでしょうか。日本人が忘れかけている「人を人として敬い、人を大切にする生き方」を大事にして生きていけたらいいな〜」と思っています。
 江東区役所から以前「オリンピックの招致バッチ」を頂いていたので、生徒、父兄全員にこのバッチをプレゼントした。6年後のオリンピック開催時にあの時の事を思い出して欲しいと言い添えた。
 「おもてなしの心」「思いやりの心」「与える心」を発揮して、オリンピック、パラリンピックの成功を期待したいと思っている。

参考文献
 日本史年表 岩波書店
 比田井和孝 比田井美恵 著 『奇跡の授業』 三笠書房

平成26年1月5日 記


前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2014