東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.169

〜歴史探訪 一人旅〜
「西郷隆盛」の生涯と薩摩藩主「島津斉彬」

青木行雄
※桜島の噴火の様子、すさまじい火石流が飛び散っている。(過去の写真より)
※「維新ふるさと館」の全景、甲突川の川沿いに建っている。維新で活躍した名士を知ることが出来た。
※エドアルド・キョッソーネ作の版画
 (西郷の親戚を参考に想像で描写したと言う)南洲翁、西郷どん、よく見る写真である。

 鹿児島と言えば一番先に何を思い出すかと訪ねられると人それぞれだが、噴火を繰り返す桜島、錦江湾、酒になると芋焼酎、そして薩摩の歴史を変えた人物、「西郷隆盛」、「大久保利通」、「島津斉彬」等々が浮かんで来る。

 

 平成25年11月鹿児島の歴史が一目でわかると言う「維新ふるさと館」に立ち寄り、薩摩の歴史探訪をして来た。市内加治屋町、JR鹿児島中央駅からだと市電「高見橋」下車。甲突川の川沿いにあり、鹿児島の歴史を知るには必見である。
 島津一門家に生まれ13代将軍「家定」の御台所となり、幕末の大奥を束ね、徳川家存続に生涯を尽くした「篤姫」のコーナー等大変興味があって堪能したが、幕末期、下級武士として生まれ明治維新を支えた「西郷隆盛」の生涯について記してみたい。

 

西郷隆盛の生涯
 1827年(文政10)12月7日、隆盛は、鹿児島城下、見学した「維新ふるさと館」の近くの下加治屋町山之口馬場で生まれた。幼名は小吉、長じて隆永、隆盛と名乗り、通称は吉之助で通していたと言う。
 西郷家の家格は「御小姓与」で士分では下から二番目の身分である下級藩士であった。
 少年時代の西郷については資料が少なく、はっきりした事は分からないと言うが、稚児の時(少年の時)、けんかで右ひじを負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになったため、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと言われている。
 16歳の時、西郷は藩の郡方書役助に任命される。
 薩摩藩では、武士の家庭の子弟がある程度の年齢に達すると、家計の助けとなるように小さな役目に付ける慣習があった。これは武士人口が多い薩摩藩ならではの慣習のようである。
 例えば、書の巧みな者は役所の書役(事務)、武術の長けた者は藩校・演武館の助教(教員)といったように、個人の能力や資質に応じて様々な役目に就かせたのである。
 西郷は右ひじのケガのため、武芸をあきらめ学問に精を出していたので、郡方書役助に任命されたのだと言う。
 西郷が郡方に任命された時の郡奉行は、迫田太次右衛門利済という人物だった。迫田は城下でも有名な気骨ある武士で、西郷はこの迫田に非常に大きな影響を受けていると言う。
 ある時、迫田は重税に苦しむ農民の窮状を憤り、役所の門に
「虫よ 虫よ いつふし草の根を断つな 断たばおのれも 共の枯れなん」
 と書いて、郡奉行を辞職した。
 虫とは役人を意味し、いつふし草とは重税に苦しむ農民のことを指している。
 つまり、「役人が農民に過剰な税を課すことは、自らを破滅に導くことに繋がる」という事を風刺し、迫田は郡奉行を辞職したのである。
 この句には「国に根本をなすものは農民である」という、迫田の信念が表れている。
 西郷はこの迫田から農政に関する考え方を一から学んだのである。そしてこの農政に関する知識や経験が、後の西郷が藩主・島津斉彬に見出される要因となったのである。

※島津斉彬肖像画(キョッソーネ)鶴嶺神社蔵
 島津家28代当主の斉彬は1851年(嘉永4年)藩主となる。

 

(お由羅騒動)
 西郷が郡方に勤務して5年後の1849年(嘉永2)、薩摩藩に大きなお家騒動が起こった。
 俗に言う「お由羅騒動」と呼ばれている。
 島津家27代当主で薩摩藩主の「島津斉興」は、正室であった周子が生んだ世子である「斉彬」ではなく、側室・由羅の方が産んだ子の久光を藩主にしたいと考えていた。
 斉彬は進取気鋭の性格で、当時の日本を取り巻く諸外国の事情にも通じ、世界からは「三百諸侯中の世子の中でも随一」と言われるほど噂高い人物であったが、藩主の斉興はそんな斉彬のことを嫌い、自らの家督をいつまでも譲ろうとはしなかったのである。
 当時、斉興は58歳になっており、斉彬は既に40歳になっていた。これは当時の社会状況から考えても異常であった。
 世子が20歳代にもなれば、父である藩主は自ら隠居して、子に家督を譲るのが通例であったのだが、斉興は自らが50歳代を過ぎ、子の斉彬が40歳になろうとも、隠居しようとはしなかったのである。
 なぜ、斉興がこれほど斉彬のことを嫌ったのかにはいろいろ大きな原因があったようだ。

 斉興がいつまで経っても斉彬に家督を譲ろうとしない。この異常な状態に対し、薩摩藩内にも不満を持っていた集団があった。
 斉彬を慕う高崎五郎右衛門と近藤隆左衛門を中心とした一派である。彼らは斉興のやり方に反発し、「斉興隠居・斉彬擁立」へと動き、暗に活動を始めたのである。
 そのような反体制への動きを知った藩主・斉興は、烈火のごとく激怒し、高崎、近藤の両名に切腹を命じ、その他この運動に関わった者達に対し、切腹や遠島、謹慎といった重い処分を下したのである。
 これがいわゆる「お由羅騒動」とか「嘉永朋党事件」と呼ばれた薩摩藩のお家騒動なのである。
 西郷の父である吉兵衛が御用人を勤めていた関係で、西郷家と非常に縁の深かった赤山靱負も、この事件に連座し、切腹してこの世を去った一人であった。
 青年の頃から赤山の影響を受けて育った西郷は、赤山の見事な切腹の様子を父から聞くと、涙を流しながら赤山の志を継ぐことを決意したのである。
 この「お由羅騒動」が若き日の西郷に大きな影響を与えることになったと言われている。

 この騒動により、斉彬派と呼ばれる一派は、急激にその勢力を落としたが、斉彬自身は藩主になることを決して諦めなかった。
 自らが得た知識や経験を藩政に生かし、大幅な改革を推進したり、諸外国の圧迫が迫る日本のために、自らの手腕を藩政に生かしたい。このような大きな目的と希望を持っていた斉彬は、藩主に成るべく一計を講じるのである。
 まず、斉彬は日頃親しくしていた老中・阿部正弘の協力を得て、薩摩藩の密貿易(琉球(現在の沖縄)を通じて、薩摩藩は幕府から許された額以上の貿易を外国との間で行なっていた)を幕閣の問題にあげて、斉興とその腹心であり、財政責任者でもあった調所笑左衛門広郷を追い詰めようとしたのである。
 自らの藩の秘密を漏らし問題にすることは、斉彬にとって苦肉の策であり、諸刃の剣を使うようなものであったが、斉彬としては何とかして藩主になるため、最後の手段を使った。そして、この斉彬の秘策は的中した。
 斉興の腹心であった調所は、藩内の貿易に関する責任は一切自分にあるという理由で自殺した。そして斉興は騒動や不祥事を幕府から突きつけられ、その後隠居の身となったのである。

 こうしてようやく1851年(嘉永4)2月2日斉彬は島津家28代当主、薩摩藩主に就任したのである。

 

 斉彬は藩主に就任するやいなや、この激動の時代を生き抜くため、薩摩藩を近代藩にするべく、徹底的に新しい改革を始めたのであった。
 斉彬が行なった改革は、大変多岐にわたった。
 @ 蒸気船の製造
 A 汽車の研究
 B 製鉄のための溶鉱炉の設置
 C 大砲製造のための反射炉の設置
 D 小銃の製造
 E ガラスの製造(薩摩切子)
 F ガス灯の設置
 G 紡績事業
 H 洋式製塩術の研究
 I 写真術の研究
 J 電信機の設置
 K 農作物の品種改良

 一々挙げていけば切りがないほどの当時の技術水準から考えれば、信じられないほどの改革を斉彬は藩内に推進していったのである。
 現在においてもこれ程の近代事業をあの時代に英断した斉彬はすごい人物であったと言える。
 また、斉彬は新しい人材登用や育成にも力を注ぎ、藩内に「藩政において、自分が気付かないことがあれば、どんどん意見書を出すように」という布告を出したのである。

 

 斉彬が藩主に就任した頃、西郷は同じ加治屋町郷中の吉井仁左衛門(後の友実)や伊地知(後の正治)、有村俊斎、後年西郷の無二の盟友となる大久保利通らと共に朱子学「近思録」と言う研究するグループを作っていた。
 この若き青年達が集まった集団が後に「誠忠組」と呼ばれるようになり、西郷はこの若手のリーダーを務めていた関係もあって、非常に人望が厚かった。
 斉彬の布告を見た西郷は、せっせと建白書を書き、藩庁に提出した。
 西郷の提出した建白書は、現在は残っていないようだが藩の農政に関することであり、農民が重税に苦しみ、困難な生活を強いられていた様子を訴えたようである。
 「お由羅騒動」で処罰された正義の武士達が遠島や謹慎の処分を解かれていないことも意見書に書き度々提出した。このような西郷の建白書や意見書が後に藩主・斉彬の目に留まり、斉彬は西郷の存在を知ることになる。
 そして1854年(安政元年)、西郷は郡方書役助から「中御小姓・定御供・江戸詰」を命ぜられる。
 西郷終生の師であり、神とも崇めた斉彬との出会いは、この時から始まったと言う。

 斉彬の参勤交代に付き従い、薩摩から江戸薩摩藩邸に勤務することとなった西郷は、斉彬より「庭方役」を拝命した。

※島津家の仙巌園にある「御殿」雄大な「桜島」を眺める名勝地、日本家屋。
※西郷ら将士40人余が最後に篭城した洞窟、史実を目前にして、ガイドの説明を受けて、感動も度を越えた。なんとも表現のしようがない。

 庭方役に任命された西郷は、そこで初めて斉彬に拝謁したのである。
 自分にこれだけの配慮をしてくれた斉彬に、西郷は涙が出んばかりの感激をした。そして「この人のためなら喜んで命を捧げよう」と西郷は思ったのである。
 この日から西郷は、斉彬より日本の現在の政治情勢や諸外国の状況と事情、そして日本の政治的課題など詳しく教育されていく。斉彬自身も西郷と接する度に「この若者は、必ず成長する」と確信し、愛情を持って西郷を一人前の人物になるよう教育したのである。
 こうして西郷は斉彬によって天下のことを知り、世に出て行ったが、波瀾万丈の人生を送ることになっていくのである。
 そして西郷が関わった主な出来事などを列記してみる。
  寺田屋騒動
  徳之島・沖永良部遠流
  禁門の変
  第一次長洲征伐
  第二次長洲征伐と薩長同盟
  大政奉還と王政復古
  戊辰戦争
  大政改革と廃藩置県
  明治6年の政変
  私学校
  西南戦争
  挙兵
  熊本の戦い
  宮崎の戦い
  城山決戦
  そして城山にて自刃

 西郷は以上のような目紛しい波瀾万丈の生涯を送る。
 薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて総攻撃を中止した、いわゆる「江戸無血開城」となったのである。
 その後、西郷は薩摩へ帰郷し、私学校での教育に専念するが、1877年(明治10)私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者とならざるを得なくなる。
 経緯はいろいろあるが、最後には洞窟にこもることになり、政府軍は城山を総攻撃したとき、将士40余名は洞窟前に整列、岩崎口に進撃する。政府軍の攻撃により、被弾を受けながら斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は将士の一人別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遥かに東に向かって拝礼した。遥拝が終わり、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねた。ガイドの活弁的な口調で聞きいると涙があふれ、感動で身がふるえた。

 

 島津斉彬に見い出された西郷隆盛はその生涯を見ると「波瀾万丈」と言う言葉がぴったりである。
 西郷が愛した言葉
 「敬天愛人」がある。
 「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」

 今でも西郷は鹿児島県人に絶大なる人気があって、年長者には神格化されているほどの大人物であった。

平成26年3月2日 記


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