東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.173

〜歴史探訪 一人旅〜
奈良 新緑の「興福寺」「阿修羅像」との再会
青木行雄
※奈良は人間とシカが共存している街である。初めて奈良へ訪ねる人は不思議な気がする。

 4月後半、奈良の都は新緑で萌えていた。そして、藤の都とも言われた春日大社周辺は山藤の花の香りが奈良の都を漂っていた。
 奈良と言えば動物の「シカ」は有名だが、神様の使いと言われるこの「シカ」は奈良では人間と共存している。この奈良公園の一角にある「興福寺」は「藤原家」の菩提寺でもあるが「阿修羅立像」はあまりにも有名な存在である。
 5年前(2009年)上野平成館にて拝見して魅せられたが再会を果たし感動した。

 

 阿修羅立像のその表情に魅せられて
 この阿修羅はインド神話の神であると言う。最高神のインドラ(帝釈天)に戦争をしかけるという、激しく戦闘的な神であったが、決して勝利することができなかったらしい。それが宿命となり、阿修羅の生き方は永遠に救われることのない六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道)の一つに含まれることになる。
 その姿は戦争の神であることから、激しい怒り顔で牙を上に向け、3つの顔と6本の腕を持ち、手には弓矢を取り、肌は赤くするのが常であったと言う。
 しかし、興福寺の阿修羅は3つの顔や6本の手、それに赤い肌こそインド神話の阿修羅の形であるが、戦争の神としての激烈な気性や強い怒りの表情などどこにも見られない。それとはまったく逆で、静けさと繊細さと謙虚さが強調されている。なんとも表現のしようがないほど魅せられる表情の顔であった。
 興福寺といえば、だれでもが「阿修羅」を思い浮かべると思う。日本でもっとも有名な仏像と言ってよいかも知れない。確かに誰が見ても魅力的ではなかろうか。そして美少年のようである。顔は小さくプロポーションも大変良い。胴も腕も細くて折れそうである。限りなく繊細で、儚さも感じさせる。3つの顔に6つの腕、尋常ではない姿である。しかし、異様な感じは少しも受けない。6つの腕は空間に自由に伸びて実に美しい。多くの手を持つ日本の仏像は千手観音菩薩をはじめ少なくはないが、これほど空間の中にすっと軽やかに動くのはこの興福寺にある「阿修羅」だけではないかと私は思う。それでいて体の動きは少なく直立しているのだ。静と動が微妙に調和されて、不思議な魅力を感じる。ここには周到な造形への配慮が働いているのだ。けっして偶然に出来たものではないと言う。あまり気が付かないが、腰に着ける衣の打ち合わせは直立の縦軸に対して、微妙な波を打ってアクセントを効かせている。よく見ると両脇の顔は外側の耳しか表現していない。髻も正面用の1つだけで3つの頭部が共有している。不思議といえばその通りだが、少しも見ていて不自然さがないのが不思議と言える。これを自然に思わせるには相当高い表現力が必要であるが、この「阿修羅」はごく自然に作り上げられているのがすばらしい。
 けれども、魅力的なのはなんといってもその表情であろう。眉を細めて心は揺れている。何かを憂いているようだ。面取りも緊張している。しかし、その眼差しは遠くを見ているようでもあり、内面を見つめているようでもある。いずれにしても特定のものに対する視線ではないように思える。このような表情の造形は他に見たことがない。だから魅力的なのかもしれないと思う。

※6本の腕がすばらしく調和がとれているように感じる。違和感を感じない。

※正面の阿修羅、表情がすばらしい。

※この阿修羅像アップの顔、なんとも表情がすばらしい。

※阿修羅の立像 弱々しいような、健康的な姿のような、6本の腕に3つの顔、違和感を感じない所に阿修羅の魅力がある。

※この「国宝館」には阿修羅像をはじめ、乾漆八部衆立像など多くの天平仏の国宝が安置されている。ゆっくり見てほしい。

 

 興福寺の歴史について
 藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として669年(天智天皇8年)山背国山階(現京都市山科区)創建した山階寺が当寺の起源という。
 壬申の乱のあった672年(天武天皇元年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺と称したとある。
 710年(和銅3年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けたと言う。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷後まもなく開始されたものとみられる。
 その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した720年(養老4年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになったのである。すごい権力があったと言える。
 興福寺は創建以来度々火災に見舞われて来た。江戸時代、1717年(享保2年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はされなかったようである。
 1868年(慶応4年)に出された神仏分離令は、春日大社と一体の信仰が行われていた興福寺は大きな打撃を受けている。
 1881年(明治14年)行き過ぎた廃仏政策が反省されはじめ漸く興福寺も再興が許可されている。
 1998年に世界遺産に登録され、1999年から日本国の史跡整備保存事業として発掘調査が進められており、平城京での創建1300年を期に「中金堂」が只今再建中である。

※東金堂と五重塔、夕方に写したので暗くなったが、夜になるとライトアップですばらしい景観であった。

※興福寺の境内整備計画図である。中金堂の建築は着々と進行中であった。

※建築中の中金堂、平成30年には完成する予定。

※中金堂の模型、仕上げ木材は、主に柱はアパ(アフリカけやき)、じく組材はイエローシダー(カナダひのき)と書いてあった。


 特別出張展がない限り、この「阿修羅像」は興福寺の国宝館にいつも居る。奈良に行く機会がある時は会いに行ってほしい。あの繊細にして、魅力的なプロポーションの美少年のような「阿修羅像」があなたを向えてくれるでしょう。

興福寺(五重塔)
出所はhttp://nara-park.com /

平成26年7月6日 記


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