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※定員50名の船。天井が上げ下げ出来る船は頭すれすれまでにおりる。 |
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※柳橋 浅草橋と柳橋の間は屋形船の停泊地として有名である。 |
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※浅草橋 遠くに見える橋。屋形船が停泊している。夕方はお台場などに出て行く。
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※聖橋 湯島聖堂とニコライ堂を結ぶ橋として「聖橋」として命名されたとのこと。
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御茶の水橋 近くには大学が多く学生の町でもある。飲食店、病院も多い。
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※水道橋 神田上水の万年樋が眺められた橋、水道橋と命名した。
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神田川と言えば、江戸時代から大変馴染みの深い川で、物流や水路、交通の要として人々の生活と深くかかわってきた。
その神田川を観光船で船旅に出かけた。江戸時代、橋は要所だけしかなかったはずだが、今回、神田川、日本橋川とウォッチングして2時間あまりの船旅でくぐった橋はなんと、55橋。橋だらけの川であった。
@浅草橋からスタートして神田川を上るとすぐにA左衛門橋があって、B和泉橋、C万世橋、D昌平橋、E聖橋がある。いつも何となく通る橋も船から見上げる景観は格別な風景で重圧感があった。
主要な橋を記してみたい。
@浅草橋
慶長年間(1596〜1614年)創架、現橋は昭和5年架設した。台東区、中央区の境に位置し、右側橋のたもとに「浅草見附跡」と刻まれた石柱が立っている。江戸城門外より浅草、千住を経て奥州街道へと通じる往来の要所として枡形の門があり、人馬を取り締まった所である。明暦の大火(1657年)の際、町民や小伝馬町の囚人たちが、閉じられた門に逃げ道をふさがれ、多数の無残な死をとげた。その後火除地として作られたのが両国広小路である。又、この川辺の土質がよいので屋根瓦の壁土、焙烙、泥人形に利用されたという。
A左衛門橋
1875年(明治8年)架設、昭和5年に架け替えた。この辺りは米蔵や街道整備の必要から大名藩邸が並んでいた。酒井左衛門尉の屋敷が橋のそばにあったのが由来となったという。
B和泉橋
橋名は藤堂和泉守の上屋敷が近かったので名付けられたという。前蔵と呼ばれた米問屋が多かったらしい。
C万世橋
1903年(明治36年)架橋、昭和5年に架け替えた。橋名にいくつかの変遷があり、万世橋としては二代目になるという。この付近に最初に架けられたのは明治10年といい、現在の位置よりやや下流にあったらしく、私設の橋を渡るのに文久銭一枚を払ったところから文久橋とも呼ばれたという。
江戸時代現在の万世橋と昌平橋の間に筋違見附と筋違橋があったという。明治になってこの見附も橋も取り払われ、この石材を利用した、東京で初めての石橋が出来たという。初代万世橋の誕生である。その後明治36年、鉄橋として架け替えられたのである。
D昌平橋
1624〜44年(寛永年間)昭和60年4月に改架した。1691年(元禄4年)五代将軍綱吉が湯島に聖堂と官立学問所を造営、孔子の故郷「魯の昌平」にちなみ「昌平坂学問所」とし、この名を橋名にしたといわれている。古名には「かり橋」「新し橋」「相生橋」「一口橋」等の名もあるようだ。左岸昌平橋と聖橋との間に「淡路坂」があるが、この坂の上に太田道灌が娘の疱瘡治癒のため勧請した「太田姫稲荷神社」がある。
E聖橋
1927年(昭和2年)7月架橋。
震災復興橋として新設架橋された。右手の湯島聖堂と左手奥のニコライ堂、二つの聖を結ぶ橋として聖橋と命名したと言う。橋名は一般公募で決めたらしい。立体的な橋脚美はバレリーナの美しい脚にもたとえられ、東京の新名所となった。
獅子文六の「自由学校」の舞台となった場所がこの周辺である。
船はこの聖橋のめったに下から見られない大アーチをくぐり、F御茶の水橋と進んだ。そして延宝元年に最初架かったと言うG水道橋を通り、通行人の絶えない後楽園に向かう橋、H後楽橋をくぐる。それから間もなく、神田川と日本橋川の分岐点、右は小石川橋、左は三崎橋となる。船は神田川をのぼらず左にまわり日本橋川に入った。
F御茶の水橋
1891年(明治24年)架設。昭和6年架け替え。
橋下一帯は都内唯一の緑いっぱいの渓谷である。御茶の水の景勝はすでに江戸の頃より人の知るところで、この地に高林寺という寺があった。鷹狩りの帰路、立ち寄った将軍二代目秀忠が庭の湧き水で御茶を飲んで以来、これが地名と橋名となった説のほか、三代家光の時代に寺の境内より突然湧水があり、以後将軍家の茶の湯として献上した説がある。左手の駿河台奥に旗本大久保彦左衛門の屋敷があったらしい。
G水道橋
1673年(延宝元年)創架、現橋は昭和3年に架けた橋である。
神田上水の万年樋が眺められたところから水道橋と呼ばれたという。上水は現椿山荘の崖下に大洗堰(ダム)を設け、水道町と小日向の境目に沿って小石川後楽園の池に入り、白山通りを南下し神田川を懸樋でまたぎ、江戸の町に飲料水を運んだ。三代将軍家光の時代に完成したという。
H後楽橋
1927年(昭和2年)11月架設。
後楽園は水戸徳川家の広大な庭園の名である。上屋敷の敷地はドームの約7倍、二代光圀(黄門様)の時代、もともと沼地であったところを造作し、庭内の心字池に神田上水を引き入れ、庭石を配し、山あり谷ありの回遊式築山泉水庭園に仕上げた。中国・宋の名臣范仲淹の『岳陽桜記』より「天下の憂いに先立ち憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」を用いて「後楽園」と命名したと資料に書いてある。
文京区役所のある場所は江戸時代「春日局」屋敷跡である。春日通りの名はこれからきたという。歴史感があっていい。昔の名前はそのまま残して欲しい。
後楽橋をくぐると神田川と日本橋川の分岐点、右は小石川橋、この橋をくぐると神田川の上流に行くが、船は左の三崎橋をくぐり、日本橋川と進んだ。
日本橋川は、三崎橋で神田川と分かれ皇居北側を通り、日本橋を経て豊海橋(新川1丁目)で隅田川に注ぐ4.8kmの川である。
川筋は慶長時代の町割りの時、ほぼ完成したと言うが、下流部は江戸湊の埋め立てと開削により時代ごと変化したようである。
日本橋川に進むと殆んどが上は高速道路。暗く橋桁が所狭しと立っていて、川の情緒は半減であるが、所々に昔の石垣や湊跡があってそれなりに楽しめた。
地図でもわかるように橋また橋でそれなりの橋の由来がある。比較的大正、昭和に架けた橋が多い。
船は千代田区役所の下を通り毎日新聞社の近く一ツ橋、錦橋、神田橋を潜って進んだ。「I一ツ橋」と「J神田橋」を説明したい。
I一ツ橋
1590年(天正18年)に架橋して、1925年(大正14年)架け替えている。
家康入府の頃、丸太が一本架けられていたのがはじまりと言うからおもしろい。近くに松平伊豆守の屋敷があったので「伊豆橋」と呼ばれたという。またここには八代将軍吉宗の子宗尹が継いだ「一ツ橋家」(御三家)の屋敷が御門内にあったと言う。
J神田橋
1632年(寛永9年)架橋と1925年(大正14年)に架橋して、1997年(平成9年)に改架した。
古くは柴崎口、大炊殿橋といわれていた。近くに老中土井大炊頭の屋敷があったという。右手に神田橋御門があり、大手門から神田方面に行く重要な関門で、その警戒は厳重であったという。将軍が上野寛永寺に参詣の時は、大手門から神田橋を渡り小川町へ、突き当りを右に折れ筋違橋を渡り、上野広小路を抜けて寛永寺へ、この道順を「御成道」と言った。柴崎は将門塚のある古地名である。
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※鎌倉橋 見ての通り上部はびっしり高速道路。鎌倉方面の人達の町だったので命名されたらしい。 |
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※鎧橋 日本橋→江戸橋→鎧橋と進んだ。上部は高速道路。 |
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※豊海橋 橋の脇には昔船番所があって、日本橋川出入りの船荷の監視があったらしい。 |
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※日本橋 高速道路の間に日本橋のシンボルが見える。架橋より約20回目が現在の橋と言う。 |
上部は高速道路の連続だが、船は鎌倉橋、JRの橋、常磐橋、一石橋、西河岸橋、日本橋と進む。そして江戸橋、鎧橋、茅場橋、湊橋、豊海橋をくぐると隅田川に出た。
全部説明したい所だが、長文になるので馴染みの「日本橋」をとりあげてみたい。
「日本橋」
1603年(慶長8年)に架橋、1911年(明治44年)再架橋したとなっている。
1603年と言えば、家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた年である。この年に日本橋が出来たとなっている。
「お江戸日本橋七つ立ち」という歌詞があるように旅立ちの出発点であった。五街道の里程の基点である。1603年に架けられた最初の橋は木橋であったようで、その後、改架すること約20回もされたという。現在の花崗岩のルネサンス風石橋は当時としては斬新で、1911年(明治44年)に建築家、妻木頼黄のデザインにより架け替えられたと言う。2011年(平成23年)4月、架橋100周年を記念して南詰め滝の広場に「双十郎河岸」船着場が新設され、周遊クルーズが発着している。この新設された時、私は初めてこの観光船に乗船した。再度の乗船であった。
橋柱の「日本橋」の文字が見えるが、徳川15代将軍慶喜の筆であると言う。
左側一帯が魚河岸であったが、当時江戸湾相模湾から鮮魚が入荷し、大江戸の台所として大変にぎわったと言う。関東大震災で壊滅したのを受け、築地に移転したというが、この橋こそ江戸市民の自慢の橋で日本橋と富士山、そしてお城の天守が重なる絵は江戸の代表的な風景であった。
橋又橋をくぐること55橋。下から見上げて観察する興味は尽きなかった。
隅田川に出て何橋かくぐったが、隅田川に架かる橋の数、人車道橋26橋、鉄道橋7、車道のみの橋2、送水送電橋4でなんと39橋にもなる。
2007年(平成19年)隅田川に架かる「清洲橋、永代橋、勝鬨橋」の3橋が国の重要文化財(建築物)に指定された。
隅田川から人工的に造られた運河、小名木川に進んで行く。
小名木川の歴史は家康が江戸に移った時代に造られた人工川である。
この川は重要な物資である塩を確保する為の運搬水路なのだ。全長4.64kmの川で隅田川と荒川に通じる川で、両川の水位が違う為、「扇橋閘門」が造られた。
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※扇橋閘門前扉。開く扉を待つ船から撮影。 |
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※扇橋閘門後扉。上部に見える水位がわかると思う。2〜3mの差があるようだ。 |
今回の船上ウォッチングは神田川、日本橋川の橋下くぐりの勉強ももちろんだが、日本の小パナマ運河(私が名付けた)の体験である。
この扇橋閘門はパナマ運河式と同様の運河であると言う。
船が閘門の前に来る。赤信号の時は待機する。(最長20〜30分かかる)信号青になると進む。水位の差は時により違うらしいが、2m〜3mの差があるらしい。
「扇橋閘門」のしくみ。(水位が高い方から低い方に航行する場合)
@前扉が開く、A船が閘室へ進む、B前扉を閉める、C排水ゲートを開く、D閘室から水を抜く、E閘室の水位が下がる、F閘室の水位が後扉の低い川の水位と同じになる、G排水ゲートを閉める、H後扉を開ける、I船が通過する。
扉が開く時すごい水が落ちて来るが、船は進行する。歓声があがる。この時の様子は体験したものの特権かも知れない。そして無事に浅草橋に帰って来た。
この船上ウォッチングは「神田川船の会」会長、林福松様に大変御世話になりました。改めて感謝すると共にこの会が益々ご繁栄と継続されることを祈念申し上げます。
参考文献「神田川船の会」資料
『日本史年表』岩波書店
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