東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(98)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 前号で述べた野鳥観察会は、20〜30羽いた「おおばん」の群が2〜3羽を除いて姿を消した為中止致しました。
 昨今の異常気象は、人類が生活する為に自然環境を改造したり、燃料を多用したりして今まで共存して来た生物の生態系に支障を来たし、かけがえのない地球が傷んでいるのが原因のようです。今からでも遅くありませんので、もっと賢明な対策はないものでしょうか。
 3月10〜11日、東海道ネットワークの例会が「早春の渥美、知多両半島をめぐる旅」と銘打って実施されます。先日担当幹事氏から、綿密に企画されたスケジュールが送られて参り、それをたよりに歴史探訪します。
 スタートは豊橋駅です。10名の会員がマイクロバスに乗り、30分で田原城に着きます。  文明12年(1480)頃、戸田宗光によって築城されました。その後、豊橋城主池田輝政の支配下となり、寛文4年(1664)以降は、三宅氏が幕末まで12代、二百年藩主となっておりました。三宅氏の江戸屋敷があった処が三宅坂として、今は石造りの名建築、最高裁があります。田原城の本丸は、三宅氏の家祖、南朝の忠臣 児島高徳を祀った巴江神社、三の丸は護国神社、復元された二の丸櫓は、博物館で、渡辺崋山の歴史資料が展示されています。
 高校で習った教科書に、芥川龍之介が著した『戯作三昧』という文章がありました。主人公は里見八犬伝を書いた滝沢馬琴でありました。偶偶、田原藩の江戸屋敷に居た渡辺崋山が馬琴を訪ねて来る件がありました。馬琴が貸した本を返却傍々、最近の画作を批判してもらい、当時の幕政について議論する一幕もありました。芥川氏の創作でしょうが、同じ時代に生きた文化人同志として交流はあったとすれば、幕政の批判によって、それが藩内の内紛に発展したであろう、という龍之介の創作力は逞しいという他はありません。
 崋山は幼少期の貧窮の中、生計を支えるために絵を売り、一方で蘭学にも励み、家老として藩政改革にも尽力しました。米の不作、飢饉に備えて穀類を備蓄する救民の為の義倉「報民倉跡」が残っています。
 城宝寺は城下町の最も東に位置し、外敵を防ぐための兵を駐屯させる目的で設けられました。
 山門を潜った左手に崋山の墓があります。26歳の時に、藩政改革の意見書を上申したが許されず、無念さを詠んだ「見よや春天地も亨す地虫さえ」の句碑が建っています。
 渥美半島の突端、伊良湖岬は、多くの文人を引きつけ、数々の名作が残っています。
 東海道を上り、吉田宿から田原街道を歩き、湊から伊勢の鳥羽に渡るのが伊勢神宮への最短コースでありました。
 伊良湖灯台を中心に見所が散在しています。7世紀末、麻績王が伊良湖に流された際、「うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈りをす」と詠んだ万葉歌碑があります。
 「鷹ひとつ見つけてうれし伊良虞崎」、芭蕉の句碑はシーサイドゴルフクラブ入口に、名古屋から領地追放になった弟子の坪井杜国をこの地まで見舞ったとき詠みました。
 日出の石門の一角に、「名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ・・・」あまりにも有名な島崎藤村の詩碑があります。
 20年程前、中山道を歩いて、木曽福島を通ったとき、お昼を報らせる鐘が「椰子の実」のメロディを奏でておりました。その時、ある疑問が湧き起りました。木曽出身の藤村が何故海に纏わる詩を作ったのか。これは名幹事氏の企画書で氷解しました。明治期の民俗学者 柳田国男氏がこの地に滞在し、岬の海辺で拾った椰子の実の話を島崎藤村に話したことから発想を得て綴ったと云われております。
 翌日はフェリーで知多半島、師崎港へ渡ります。東海道を歩いたとき、熱田神宮から桑名までの七里の渡しに最も近い船旅をしようと考え、いろいろ問い合わせた末、下記のような首尾となりました。神宮前から名鉄の終点河和からフェリーで目と鼻の先の日間賀島へ渡り、2時間程砂浜で昼寝をしておりますと、30人乗りの遊覧船がやって来て、四日市港まで約90分の船旅を満喫することが出来ました。従って知多半島は名鉄で通過したに過ぎず、幹事氏の旅程表を見るまでは、こんなに素晴らしい地域に文化と歴史の宝庫があることは知りませんでした。
 2日目の見所は、常滑と半田です。
 常滑は焼物の里と云われ、陶磁器会館を振り出しに、窯場や赤煉瓦の煙突がある工場を見て散策、途中廻船問屋 瀧田家に寄ります。瀧田家は江戸時代、廻船業を起しました。
 瀧田金左衛門の居宅を市で復元し、八百石積みの弁財船の模型や、船箪笥が展示されています。18世紀以降は、常滑焼や酒、味噌を江戸や上方に運んで手広く商いをしました。
 昼食後、醸造のまち、蔵のまち半田を散策します。ミツカン酢で有名な中埜酒造は弘化元年(1844)創業で、酒造の副産物である酒粕を原料に酢を製造し、これを江戸に運び江戸前のすしの味が成り立ちました。ミツカン酢倉庫群を通り抜け、江戸時代は紺屋街道と呼ばれた半田のメイン街道は当時の面影が所々に見受けられます。カブトビール工場跡は国登録文化財です。
 明治31年(1898)、東京駅を設計した辰野金吾と共に、明治建築界をリードした妻木頼黄が設計し、赤煉瓦の工場が建てられました。
 中埜家住宅(国重文)は明治44年(1911)、半田を代表する実業家の一人、中埜半六の別邸として建てられました。白い壁とスレート瓦の三角屋根の外観により、明治時代の洋風建築を当時のままの姿で見ることのできる貴重な建築であります。
 以上で2日間にわたる歴史探訪を終わります。東海地方には一足先に春が訪れているでしょう。

半田赤レンガ建物
(旧名称 カブトビール半田工場)
出所: http://ja.wikipedia.org/wiki/




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