東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(101)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 当社が耐震ビジネスを始めて20年近く経ちました。1995年1月17日起った阪神淡路大震災を契機に、木造住宅を災害から守る手立てはないものかと模索しておりました処、自動車や新幹線の車輛に装備するオイルダンパーを生産し、大きなシェアを占めている日立系のメーカーとの出合いがありました。制震工法を共同で研究開発し、共同特許も取得して今では営業の柱となっております。
 当時そのメーカーに大手エンジニアリング企業から移籍されていた天川様は、当社の新事業立ち上げに一方ならぬ御指導を賜りましたが、メーカー退職後も、知見を生かして(一社)日本CM協会(Construction Management Association of Japan)の会員として機関誌に健筆を振っておられ、私も多くの示唆を頂いております。
 今回は、機関誌「CMAJ」Vol.37から、天川様が執筆された @『水の恵みと土木官僚西嶋八兵衛』を読んで歴史探訪し、又同誌掲載 A『首都圏を防災都市に再生しよう』から、近年中にかなり高い確率でやって来るという首都圏直下型地震の対策について考察します。
 @ 17世紀半ばは、地球単位で、火山噴火等により異常気象が発生し、穀物生産量が激減しました。日本では宝永4年(1767年)富士山の噴火等で旱魃、長雨、寒冷等により大凶作となりました。
 讃岐国(香川県)は今でも降雨量は、高松市で年間1,000ミリで、同じ四国、高知市の約半分しかありません。約1200年前、土木技術に優れた知見を持つ空海のアイデアで、水圧を考慮したアーチ状の堤防により溜池が作られました。
 西嶋八兵衛は、1596年、遠州浜松の生まれで、17才のとき、築城の名手、伊勢津藩主藤堂高虎に仕え、二条城、大坂城などの普請中は高虎の身近にいて、土木技術を習得する機会に恵まれました。藤堂藩は忍者の里、上野を擁していた為、江戸屋敷の周辺は忍ヶ岡と呼ばれておりました。江戸時代になって平和が訪れ、忍者は不要になった為でしょうか、琵琶湖を模して開削された池は不忍池と命名されました。
 幕府の命で高虎が1621年讃岐国藩主生駒高俊(当時11才)の後見人に就いたことを契機に、八兵衛を讃岐国に派遣し、同国の再建を託しました。八兵衛は空海が821年に溜池を修築し、その後1184年に決壊し、450年余り放置されていた満農池を利用することを考えました。地元の豪族、矢原又衛門の支援を受け、多くの農民の協力により、大規模(1,638米×819米、深さ20.2米)提長45間(81.9米)の人工池が完成しました。
 この水利により石高は3万6千石増加し、生駒藩の17%を占めるようになりました。
 八兵衛は14年間で90ヶ所余りの溜池を築造し、伊勢に帰国後も新田と灌漑用水の開発に貢献し、1680年85才の生涯を閉じました。私は八兵衛の生涯に大きな感動を受けましたが、本項を執筆するに当たり天川様は 1.讃岐の溜池誌 2.同上資料編他等 16冊の参考文献を読破し、素晴らしい投稿を完成されました。改めて厚く御礼申し上げます。
 A 東日本大震災の震源地に最も近い東北電力女川原発は海抜14.8mの高台に作られ、地震による損傷はほとんどありませんでした。これは1968年当時、電力中央研究所の所長であった平井弥之助氏(元東北電力副社長)の功績であります。氏は貞観地震(平安時代869年)M8.5 東北大津波の記録を踏まえて、津波高さの想定値を3mから9.1mに変更し、14.8mの高台に立地させました。
 首都圏では、2005年に発覚した姉歯事件により、違法建築物としていくつかのマンションが構造計算書偽造の「違法建築物」として使用禁止令が出されました。ところがそれらは、新耐震と呼ばれている基準には満たされないものの、旧基準(1981年以前)よりは丈夫に出来ております。
 1950年当時建築基準法を定めた官僚に今更責任を取らせることは出来ませんが、当時の基準が姉歯ビル以下であることを周知させ、建物所有者に建替え、解体をお願いし、費用の一部を補助金として支給すべきではないかという意見もあります。今後は都心に人口が密集して来て、30年以内にかなり高い確率で襲来するという地震に対し、大きな被害が予測されますので、事態は深刻であります。
 当社が新木場に移転する前は、深川平野町で営業しておりました。深川はゼロメートル地帯で、満潮のときは水門を締め、ポンプで排水しています。
 昭和34年(1959年)名古屋を直撃した伊勢湾台風では、水面貯木場から流出した丸太が暴れて街中に溢れ、家屋を破壊し、5千人の尊い人命が失われました。
 これを機に深川から新木場に集団移転しようという気運が起り、約20年かけて造成、移転が終了しました。跡地は昭和天皇在位50年記念公園となり、災害時の防災拠点も兼ねております。公園の地下は地下鉄大江戸線の車庫になりました。
 しかし、ゼロメートル地帯には未だ多くの人が住んで居り、荒川の上流、堀切の辺りで若し地震等で堤防が決壊すれば、かなりの面積が水没する心配があります。これをスーパー堤防で強化しようという計画もありましたが、民主党政権のとき、蓮紡氏の仕分けにより却下されました。
 2020年東京オリンピック招致で老朽化した首都高速等は改修されることでしょうが、この機会に東京は生まれ変わることが出来るのでしょうか。
 先日、天川様から「CMAJ」Vol.38の抜粋が送られて参りました。氏のテーマは『河村瑞賢・知力の土木事家』であります。私もこれを機に平成8年開館した「東京みなと館」に行き、徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長8年(1603年)以来、河村瑞賢が活躍した江戸初期から、明治に到るまで、江戸から東京への発展を支えて来た、江戸湊(現東京港)の歴史についての展示を見学しようと思って居ります。

江戸図屏風に見る、初期の江戸
出所: http://ja.wikipedia.org/wiki/




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