『歴史探訪』(106)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
去る10月16〜17日、東海道ネットワークの会21の例会がありました。同会が発足したのは平成4年(1992年)でありました。私が入会した平成7年には、2代目会長渡辺氏が故会長鈴木和年氏の後を引き継いでおりました。
初代会長鈴木氏は大変情熱のある方で、映画の松竹を定年退職された機に、在任時代の人脈を駆使して、53の宿場に呼びかけて500名以上の会員を集めました。制作した映画をPRする為に、各宿場内に桂の苗木を植えて歩きました。何故「桂」かと申しますと映画の題名が「愛染かつら」であったことによります。2代目会長は初代の友人であった為、推されて選ばれました。3代目会長太田銀蔵氏も亡くなり、会が10年の歴史にピリオドを打つ為に、記念記事「東海道灯火リレー」を実施しました。これは、比叡山延暦寺に燃え続けている灯火を、会員が次々に点火して、上野寛永寺まで繋ぐという気宇壮大なイベントでありました。私は丁度その時、母が94歳で亡くなる直前で、家を空けられず、参加できませんでしたが、イベントは大変盛り上がり、会員の総意で、東海道ネットワークの会21と銘打って、現会長秋庭氏の統率の下に再発足しました。
新会発足10年記念イベントは、日本橋から京都まで、会員がリレーして歩くという「東海道宿場リレー」が行われ、この時は私も4回参加して歩きました。ただ、私が1人或いは画伯と2人で歩いた時とは15年以上経っており、付いて行くのがやっとでしたが、体育系の会員のリーダーシップと、仕事を投げ打って伴走して下さった献身的なサポートのお陰で予定通り無事に京都三条大橋に着きました。
前置きが長くなりましたが、今回は再発足後46回目の例会で、「秋葉神社と遠州の名刹を巡る旅」(1泊2日)と銘打って実施され、参加者は僅か10名で、10時に小型バスで浜松駅をスタート、一路天竜川に沿って北上します。秋葉神社は、浜松から直線距離で30km以上あり、しかも途中から、植林の育成、手入れ、伐採、搬出の為、整備されたスーパー林道の急勾配を登って行きます。静岡県は面積の64%以上が森林です。300坪位の駐車場でバスを下り、石段を10分程汗をかいて上りますと、標高800米の位置に大きな神殿と、もっと上に金色の鳥居が見えて参ります。
秋葉神社は和銅2年(709年)創建。秋葉寺は養老2年(718年)行基によって大登山霊雲院が開創されました。秋庭会長は同姓のよしみで26年前に参拝され、日頃から神仏混淆(神仏習合)に興味を持っておられ、帰りのバスで、有難いお話を聞くことができました。
明治になって廃仏毀釈が発令され、秋葉寺は破壊と追放の憂き目に遭い、それは明治13年(1880年)まで続きました。神仏混淆とは、日本古来の神道と外来宗教である仏教を結びつけた信仰を言いますが、幕末頃になって、国学者や水戸藩の過激な日本主義者らによって両者を分離し、純粋に日本古来の神道を唯一奉じるべきであるとしました。秋庭会長は、今では信仰の自由がありますが、日本人としてお寺と神社を渾然として参拝していますが、両者に折り合いをつける時期に来ているのではないか、と仰っていました。
全国400社の秋葉神社の頂点に立つ上社で厄除開運、火災消除のご祈祷をして戴き、別室で食事を頂きましたが、精進料理ではなく、肉も魚もお酒も出ました。最長老の会員野上さんが、食事前に、秋葉を何んと発音するのかと、質問されて居りましたが、関西方面では「アキワ」と呼び、関東では「アキバ」が多いようです。JRの駅を「アキハバラ」「アキバハラ」と2通りに呼んでいますが、これは近くに秋葉神社の分社があって地名と駅名になったようですが、AKB48の「AKB」は「AKIBA=秋葉原」の略で、今後もいろいろ論議を呼ぶことでしょう。
秋葉神社は周辺で産出する豊富な木材で建てられており、中には1000年を越す樹齢を持つ木材も使われているようです。従って、火災保険制度もなかった大昔から、神社を火伏の神として崇め、東海道を歩く旅人も寄り道をしてお札をもらい、帰って家に納めるのは、日本人が持っていた知恵ではないでしょうか。
ここで、秋庭会長の大作『東海道史話 第2集』天竜川に「大天竜の治水と金原明善の苦心」を読み返します。金原明善については郷土の偉人として静岡県の小学校の教科書にも載っており、県内では知らない人は誰も居りません。
江戸時代から天竜川の氾濫は豪雨の度に繰り返されました。金原明善は遠江国長上郡安間村に生まれました。(1832〜1923年)生家は天竜川の際にありました。父久右衛門の跡を継ぎ、名主になって13年、天竜川が東縁で2,240米、西縁で5,180米決壊し、この機に、明善は治水対策を講じるよう建白書を明治政府に出し、37歳のとき、天竜川堤防御用掛を命じられました。明治8年、治河協力社を設立。自邸内に利水学校を設立、土木技術者を養成し、47歳のとき全財産を投げ出して天竜川治水工事の費用に当てました。今の貨幣価値で数十億に相当します。治河協力社は明治20年に解散し、河川事業は国の直営事業となり、以後は林業に力を注ぎ、杉、桧の植栽などの事業を行いました。
今の静岡県天竜川流域の美林は明善の残した貢績であります。
戦後の土木技術の大革新により、佐久間ダム(昭和31年)、秋葉ダム(昭和33年)完成以後、天竜川の氾濫は無くなりましたが、大正12年明善が亡くなって35年が経っております。
16日午後〜17日は名刹巡りで順を追って探訪します。
二俣城跡 戦国時代、今川、徳川、武田氏攻防戦の舞台となりました。天竜川左岸に突き出ており、標高90米の丘陵の上にあり、今は城壁の一部が残っているのみで、籠城の際は川に櫓を立て、水を汲み上げ凌いでおりましたが、武田氏がこれを毀すと水不足により落城しました。家康は長篠の戦いで奪い返しました。1579年、長男信康が生母築山殿と謀り武田氏に内通したとの嫌疑をかけられ、家康はこの城で嫡子信康を切腹させました。
信康山清滝寺 二俣城の裏手にある清滝寺の本堂背後の山の中腹に信康の墓があります。
初山宝林寺 中国明朝風の建築様式で、24体の善神像がずらりと並び庭には五智如来ほか多くの石仏が圧巻。何れも中国の石工の作という。京都万福寺未寺で黄檗宗の専門道場として栄えた。寛文4年(1654年)明の独湛禅師が創建した。
瑠璃山大福寺 貞観17年(875年)名僧教待上禅師が創建。朱塗り寄棟造りの巨大楼門の左右には鎌倉期の金剛力士像が睨みをきかせているが、門をくぐると参道のあった道が公道となって、本殿は坂を200米上った処にある。
薬師堂は重文。庭園は室町時代の作。回遊式庭園、明の僧から伝授されたと言う大福寺納豆は、足利義勝、今川義元、豊臣秀吉、徳川家康から愛されたという逸品。今でも名物として売られている。
16日の宿は浜名湖に隣接する猪鼻湖畔にあるホテルリステル浜名湖。翌日早起きして浴室から眺める朝日は素晴らしい。
17日8時半スタート
大乗山摩珂耶寺 開設は神亀3年(726年)、行其菩薩、鎌倉時代に構築された庭園は独特の幽玄美を持つ石組がある。この庭は昭和43年、東名高速道路建設時に庭好きの土木技師が発見し、学術調査の結果雑木と雑草の下から石組が見つかり復元された。私も同じ頃、建設会社に勤務し、静岡県で東名高速道路建設に土木技師として携って居りましたので、感無量でありました。
常霊山本興寺 日蓮の弟子日乗上人が開山。
江戸期には10万石の格式を持つ。同行の会員手島氏は静岡県で日蓮宗のお寺の住職を勤めて居られ、当寺の当主と立命館大の先輩後輩の間柄で、我々一同特別待遇を受けました。山門は旧吉田城の城門、奥書院も吉田城主久世氏の寄進、延宝2年(1674年)。大書院は文政10年(1827年)の建立で、谷文晁作「四季山水図」は圧巻。本堂は国重文、寄棟造りの茅葺で重厚な安定感を持つ伽藍であります。庭園は小堀遠州により慶長14年(1608年)作庭された蓬莱式池泉庭園として四季を通じ趣きがあります。「水の音ただにひとつぞ聞こえけるそのほかはなにも申すことなし」白秋の石碑もありました。
昼食は私が歩いた20年前とはまるで新しく整備された弁天島の静かな料亭で摂りました。当会初代の事務局長秋山民野氏が、土山宿の当主夫人が亡くなられてお悔やみに行く途中、舞坂宿の脇本陣でお会いすることが出来、最近復元された立派な建物も見学することが出来ました。
秋山さんに見送られて、一路本日最後の目玉浜松城に向かいます。懐かしい舞坂の松並木を走り、以前の鰻の養殖用の池はすっかり整備されて新しい街が出来ておりました。
浜松城は家康が構築し、永禄から天正にかけて17年間在住したことで出世城と云われて居ります。この間に、姉川の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、三方ヶ原の戦い、それに嫡子信康の自刃など多くの艱難辛苦の天下人への石段を着実に昇って行き、江戸時代16代265年の平和な時代の基礎を築きました。2日間のフィナーレを飾るのにこれ以上相応しい場所はないのではないでしょうか。今回の例会は、浜松駅を振出しに、一路天竜川に沿って北上、深山幽谷に鎮座する秋葉神社を訪ね、午後から翌日は名刹を足掛りに歴史探訪をしました。途中寄った三ヶ日町はみかんの街で街灯の柱の天辺には大きなみかんが飾ってあり、今は旬の味覚に舌鼓を打ち、私も宅急便で10kg送りました。
出世城と謳われる浜松城でお開きとなりました。ほとんどの会員は老境に達して居り、それでも最後まで助け合って歩きました。
次回は、東海道の原点であります足柄古道とその周辺を3月に散策しますが、富士山が最も綺麗に見える早春の1日を今から楽しみにしております。
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