〜木場歳時記〜
其の十 初荷・店飾り
正月5日、数十年来この日が仕事始めであり、即ち初荷である。尤も昭和も50年頃(1975)迄は代々踏襲してきた習わしだと言って、2日の朝5時に初荷を運んだり受け取ったりしていた小売屋の親父と頑固な大工のコンビがいたが、今なら間違い無くTVが取材に来たろうに、惜しい事に2人共大分前に目を瞑ってしまった。
午前9時、全員集合。年頭の挨拶の後、神前に低頭し拍手、武運長久を例年より少し大目に祈り銘酒「名倉山」で乾杯!。数台の車に初荷を積み込み、それをバックにして自社のマークを正面に据えて手拭で鉢巻を締め、記念写真をパチリ。名倉山を一本ずつ持たせ車は出発。また以前はどちら様も初荷の車には得意先の社名を書いたフラッグを風に靡かせて行ったものだが、近頃はこの様なスタイルはとんと見掛け無くなった。初荷の車を出すと今度は産地からの初荷の到着。運転手に心ばかりの祝儀と手拭を渡し荷降しが終わる頃になるとボチボチ年始の客も増え始め、挨拶や酒注ぎが忙しくなる。
そして、この日の為に早朝より手入れをしたる正月飾りの説明。これは毎年恒例の事だが、趣味の刀剣類を10振り程と鍔などの小道具を数点、飾り付けお客の目を楽しませている。今年の出し物は、平安期の小太刀「河内国・有成」、鎌倉前期の「相州・行光」、南北朝期の「備前国長船兼光」、室町末期の「三州・薬王寺」(由緒・押形共)、「濃州・関の民・国次」、桃山期の「南紀重国」等の太刀、刀、脇差、短刀の本身と拵えを合わせて飾り、他に青貝散らしの「歳長」のカゴ槍等を並べ小道具は正月を寿ぎ、初代の平田道仁の七宝の「宝尽くし」の鍔と縁(ふち)と縁頭(ふちがしら)にて祝った。是れらの品を個別に解説するととても紙面が足らぬので又の機会とするが、その中でも特に強く思い出に残っている事を一つご紹介を致して見ましょう。
そのマカ不思議な顛末とは、名刀、名品と言われる物は「自己アピール」をする、と云う事である。昔より幾多の物語の中に刀が自己の存在を示す為に勝手にPRをする場面が出て来るが、この話なども深読みをすれば正にその手の話に通ずる物がある。
ある年の正月、今年と同じく展示中に「この中でどれが一番切れますか?」と直截に聴かれた。普段からかなり多い質問なので「刀は全て切れます。要は切手の腕です」と、セオリー通りに答えたのですが、それでは少し素気ないかなと思い、古来より切れ味で名高い「孫六・兼元」(姉川の戦いで朝倉の強豪・真柄十郎左衛門をスパッーと切った)、かなと思い、そこへ手を延ばしたところ、手前の刀が少し動いた、瞬間的にその刀身をパッーと掴んだ。すると手の内がぬるーとして微妙に熱い。シマッタ!と思い暫し息を整えた後、徐々に開いて見ると左手の掌(たなごころ)が6分(1.8センチ)程スパッーと切れており鮮血が滴たり落ち〜年なのでほとばしらない〜慌てて止血をし包帯を幾重にも巻いたが、その頃になって漸く痛みが出てきた。
思うにこの刀は「この中でオレが一番切れる」と言うことを自己主張したくて、小生の手をPR用に使ったに違い無い。その頭の良い刀の名は、「南紀重国」と言い、慶長新刀中その最上作3名の内の一人で名付けて、「花筏・重国」と申す。来歴もこれ又チト珍なのである。本来、刀剣というものは、その拵え(外装)が供なっていてこそ完品であるが、近来は刀身だけが一人歩きをして、大半は白鞘(休み鞘)だけである。これではどの様な名刀とて画竜点晴を欠くの誹りを受けることに成ると思い、数年前より或る拵えを思い描いていた。それは材木屋という商売を加味して「花筏」の図柄ときめていた。河に浮ぶ筏の上に桜の花びらが舞い踊る図柄で古来より有名な意匠のため、鍔なども数多いのだが中々グーと思う物が無い。特に縁とか縁頭となると刀身や鞘の造込みや色合い雰囲気に馴染む物が大変に少ない。
一般に古美術の収集は焦りは禁物、気長に待って出てきた時が勝負である。それには先ず一流の古美術商から良い品が出たら一番初めに電話が来る様に普段より心掛ける事が肝要である。その三要素として、まず鑑識眼、次に常識、その次がお金の順であろう。品物を前にして相手は価格を言わ無い。こちらから値段を付ける。相手はその価格が折り合えば品物を少し前に押し出す。悪ければ引っ込める。代金はその多寡に係わらずキャッシュ、その場での決済がセオリー。当然クーリング・オフは通用しない。この間、金額以外のことは一切無言なり。正に真剣勝負そのものである。
某月某日、突然ベルがリーンと鳴り、「ご依頼の物、揃いましたのでお序いでの折にお立ち寄り下さい」との電話である。おっとり刀で飛んで行くと、太刀にも刀にも使える半太刀拵えの鞘が一本、塗りは根来(ねごろ)でその漆の発色も良く時代も有る。柄の巻糸はボロボロだが下の鮫は星も大きく多少薄汚れてはいるが洗えば相当な物である。
目貫は「這い龍」のため外したが、金具の兜金・縁・責金・鐺(こじり)は全て花筏の透し彫りの一作。この金具一式は後に兜金の下より「古作の縁(柄と鍔の間の金具)此有り。その出来美事、ために親明(幕末の金工)此を写し一作となす」という文字が薄い銅板に彫り付けられ出てきた誠に珍しい事である。後は、目貫(めぬき)と鍔だけだが、目貫は桜花三連の上等兵マークの色金物が直ぐに見つかり、鍔はかねてより手持ちの名品が有ったので、柄巻を青糸で巻直し、目出度く念願であった桃山風の「花筏拵え」の逸品が出来上がった。
問題はこの拵え(鞘)に入れる中身である。元来この鞘には備前の重刀だが無銘物が入っていたのだが、いくら重要刀剣でも無銘ではと思っていたら、最前よりこの様子をジッーと見ていたこの店の店主が黙って持って来たのが、和歌山県の重要文化財指定の「南紀重国造」である。そんな名刀が後家鞘に入る訳が無い、と誰もが思ったが、それがスルスルするすると入って行き、もうつかえると思う間も無く、パチーンと鯉口が鳴り見事に納まった。ハバキ元までピッタシである。これにはまったく驚いた。腰が抜ける程驚いた。正に奇跡である。後家鞘…本来は別の刀の為に作られた鞘…に多少手直しをして入れる事は有るが、そのままピッタリというのは何十万本に一本であろう。流石にプロの眼力であり恐れ入谷の鬼母神である。何事もプロとはかくありたいものである。
この「南紀重国」とは、大和国(奈良)の手掻派(東大寺の専属刀工で転害門の近辺で鍛刀していたのでその名が付いた)の系統を引く名工で徳川家康の抱え鍛冶にて晩年は家康の居城である駿府にて鍛刀し元和2年(1616)に家康が目に瞑ると、その八男で紀州徳川家の始祖、徳川頼宣の和歌山城下に移った。「城州国広」、「肥前国忠吉」と共に、慶長新刀の3大名人と称されている。
日本刀は天下分け目の慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを境に古刀、新刀と呼称が変わる〜。
コレクターの大事な役目の一つに傷つき痛み放浪している名品を見つけて元の健康体に戻すと言う仕事もございます。刀剣類の病人が居りましたらご一報下さい。全治させます。
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