東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.178

〜歴史探訪 一人旅〜
相模の武将「土肥実平」と「城願寺」

青木行雄
明けまして御目出度うございます
本年もよろしくお願いいたします

平成27年 元旦 青木行雄

 

※別府湾にて、「さんふらわあ」船上より、大分の工業地帯の日の出風景

 JR湯河原駅の改札口を出て左側に大きな桜の木(染井吉野)があって春は見事な花を咲かせ観光客を迎えてくれる。その下に「土肥実平と妻の像」がデーンと建っている。改札口を出てすぐに車に乗れば気がつかないかも知れない。
 最初はあまり気に留めなかったが、何回も見るうちに気になって来た。きっと地元では有名な人かも知れないと思い探ることになった。
 この「土肥実平」は桓武平氏の血を引く相模の豪族中村氏の一族。相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字とした。この湯河原町や真鶴町、近辺を本拠として活躍した武将であった。
桓武天皇(第50代天皇)…平高望→良文(板東八平氏の祖、平将門の叔父)→忠頼→頼尊→恒遠→恒宗→中村宗平→「土肥実平」

土肥実平
 生没年不詳である。もう少し生い立ちを探ってみると、平安時代末期から鎌倉時代の初期頃に活躍した武将で、本来は「どひさねひら」と読んだようである。前記に書いたように「平高望」の後裔で、中村荘司宗平の息子である。相模国足下郡土肥郷(現神奈川県湯河原町)真鶴を本拠とし土肥次郎と称した。1180年(治承4年)「源頼朝」の挙兵に参加する。この戦が石橋山の戦いの時である。
 伊豆で平家の目代山木兼隆を討ち取り、気勢をあげると、相模に向かって進軍する。その兵約300人、この石橋山で大庭景観軍3000人、伊東祐親軍300人と合戦して大敗した。頼朝は、土肥実平の手引きによって土肥の椙山に逃げた。このとき頼朝が潜んだといわれるのが「土肥の大杉」で梶原景時が頼朝を見逃したという伝説が残っている。その大杉は今残っていないと言う。
 その後、頼朝は箱根権現に身を寄せるが、再び椙山に戻り、「しとどの窟」で数日間を過ごした。この「しとどの窟」に食糧を運んだのが実平の妻だったといわれている。
 そして大庭軍の目が遠ざかったのを見計らって、真鶴半島まで駆け下り、海路安房を目指した。この一連の助けを実平が行ない、頼朝の再起の手助けをした。
 以来、頼朝に重用され、佐竹氏・木曽義仲・平氏征討に奮戦する。
 1184年(元暦元年)には備前・備中・備後国の惣追捕使に任ず。1185年(元暦2年)に平氏が壇ノ浦に滅ぶと、捕虜平宗盛らを京に護送。源義経都落ち直後の洛中警護の任にもあたったと言うが、1191〜1195年(建久2〜6年)頃に死亡したと言われ没年ははっきりしていないようだ。
 いずれにしても相模の武将で、平安時代の末から鎌倉初期にかけて頼朝の時代に活躍した、湯河原・真鶴を本拠とした武人であった。実平の妻も賢女で両名像になったのであろう。

※JR「湯河原駅」駅前の風景

※湯河原駅前に立つ「土肥実平と妻の像」

※湯河原駅前に像と並んでこの碑がある

城願寺
 山号は万年山で寺号は城願寺である。
 平安時代末期には伊豆山の般若院系の真言宗のお寺であったらしいが、鎌倉時代に土肥実平・遠平親子が、再興して「成願寺」と改称し、土肥家の菩提寺とした。当時の寺は相模国五山派の官寺と同列に列せられ名刹禅院として知られたと言う。1521年(大永元年)当地が、小田原北条氏の領地となった時に曹洞宗に変わり寺号も現在の「城願寺」と改称して現在に至ると記されている。

 JR湯河原駅からガードを潜って山側に出ると、城願寺はすぐ近くにあり、石段の参道がある。秋の紅葉がすばらしい。石段を少々登ると山門に到達する。この山門大分変わっている。坂に立っているため中心の柱は少し山側に寄り全体の重心をしっかり受けている。更に登ると右側に「七騎堂」がある。謡曲「七騎落」を表現したもので、源頼朝が旗揚間もなく石橋山で敗退し、湯河原や箱根山中を逃げ回り真鶴から房総半島に船で渡る時に8の数字を忌み嫌う頼朝が一人船から下ろすことを実平に命じ、実平は嫡子の遠平を船から下ろし、房総上陸を果たし、鎌倉に幕府を開くことに貢献したということである。
 この七騎堂は、その故事により地元の土肥会の40周年の記念に作られたもので、地元の439人の寄進を受けて作成したと言う。
 石段を登った本堂の手前の庭先には樹齢800年を超えると言われる「柏槙」の大きな木がデーンとたっており、寺の歴史を物語っている。この「柏槙」の木は、樹高約20mあり、根廻り約8m、目通り約6mもあると言う。樹齢800年以上も超えていると言うからすごい。この「柏槙」と言う木は、京都の大徳寺・東福寺、鎌倉の建長寺など、禅宗の寺院に多く植えられていると言う。とにかく一度必見の価値がある。
 かなり広い墓地の奥には「土肥一族の墓地墓所」があり、この苔むした墓が横に並んでおり、実に歴史を感じる。関ヶ原の戦いを決した小早川家も土肥家の末裔ということで、織田信長や徳川家康の家臣が全国に散らばったように頼朝の家臣もその後のそれなりの役割を果したようだ。
 このように湯河原は、鎌倉幕府創設に大きく貢献した土肥一族に対する思いが深いように思う。
 湯河原の原点ではないかと思うこの「城願寺」にもう少し観光スポットを当てても良いような気がする。

 

※「城願寺」の山門、湯河原駅の裏手にある。

※城願寺の境内にある「柏槙」の木、樹齢約800年と書かれている。なかなか見られない木である。

※木がねじれており直幹はなし、不思議な木である。

※「土肥一族の墓所」と看板。歴史が書かれている。

※昔の墓所にある独特な石。かなり大勢の人の墓石と思われる。


城願寺
出典: http://www.doisanehira.com/

平成26年11月30日 記


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