4月後半、奈良の春日大社周辺は「藤の花」が真っ盛りで、辺り一面に花の匂いが漂っている。そして公園内の約1000頭余りの鹿は朝早くから草を美味しそうにむさぼって食べていた。タイムスリップを感じる奈良の早朝光景だ。
「春日大社」では第60次式年造替中で、土日は1万人に近い人々が訪れ、まさしく今が最高のシーズンである。
春日大社では、1年365日、2200回以上のお祭りが奉仕されているという。そうした中での至高最上の祭典がこの「式年造替」である。「式年」とは「定まった一定の年限」。「造替」とは「社殿を造り替える」という意味である。
神様がお引越しされることを「遷宮」というが、春日大社では本殿の位置は変えずに建て替え、あるいは修復を行うため「造替」という。
神様に西隣の移殿へ一時お遷り頂くことを「※1仮殿遷座祭」。本殿の修復が終われば、元の本殿にお遷り頂く、これを「※2本殿遷座祭」という。
768年(神護景雲2年)の創建以来1200年にわたって、御殿の建て替えと御神宝の新調がほぼ20年に一度、繰り返しご奉仕され続けてきた。造り替え、修繕を行うことによって、神様のお住まいを新たにし、神様の尊さを認識し、更に次世代へとご存在を伝え継ぐ行事であると共に、人づくりの叡智でもある。
常日頃のお恵みに感謝し、真心をつくしてのご奉仕を行い、そのお恵みをありがたく拝し、ただただ感謝申し上げる。
これが神々への祈り「御造替」の原点であると書かれている。
※1「仮殿遷座祭」
平成27年3月27日第60次式年造替の仮殿への移殿は無事お済みになり
「仮殿遷座祭」は無事盛大に終った。
※2「本殿遷座祭」は1年後の平成28年11月6日盛大にとり行われる予定である。
天の原 ふりさけみれば 春日なる
三笠の山にいでし 月かも
『古今和歌集』より
遣唐使・阿倍仲麻呂の和歌にみえる「三笠山」とは、春日野の東に仰ぐ御蓋山であり、古来、神の宿りし山として人々の信仰を集めてきたという。
春日大社は、この古代から信仰の厚い御蓋山の麓に、奈良時代、日本の国の安泰と国民の幸せを願い創祀されたのである。
壮麗な社殿を造営し、はるばる鹿島神宮(茨城県)から
@ 武甕槌命 神様を迎えられた。
やがて香取神宮(千葉県)より
A 経津主命 神様も鎮座される。
そして枚岡神社(大阪府)から迎える。
B 天児屋根命 神様
C 比売神 様
という、尊い四柱の神々が迎えられ、お祀りされたのが始まりであるという。
以来、千古の緑に丹塗りの柱、白い壁、そして桧皮屋根の本殿、社殿が淡麗な姿で鎮まる姿は、豊かな自然とともに、1300年以上前から変わることなく、多くの方々に親しまれ、崇敬されて来た。
平成10年12月には、春日大社や春日山原始林を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されたのである。
こんなわけで、この第60次式年造替を記念し、いろいろな特別公開が行われている最中である。
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※春日大社の中門・御廊を入ると御本殿がある。木造で鮮やかな本朱で塗られており、全国的に大変珍しい建物という。 |
※奈良県庁、朝7時頃。県庁の表玄関先で美味しそうに草を食べる鹿。奈良公園は鹿が雑草を食べるので、草取はいらない。 |
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※みごとな「下り藤」。春日大社の神紋であり、山には至る所に自生している。4月後半頃が見頃のようである。 |
※第60次式年造替で、御神霊が遷されている御仮殿である。6月1日より、特別参拝が出来る。春日大社パンフより。 |
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※中門の中の御本殿。(春日大社のパンフより)四柱がみごとに並んでおり「春日造」という。普段は絶対に入れない禁足地である。 |
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平成28年11月の本殿遷座祭に向けて式年造替に関わる特別公開である。
「広く全国の方々にご参加いただき、1200年以上、途切れることなく続く、式年造替の歴史的・文化的価値を広く全国の方々にお伝えし、この営みを未来へとつなげていきたい」と春日大社は特別公開をしているのである。
四柱を祀る国宝・御本殿特別公開は4月1日から6月30日まで。20年に一度に限り、普段は足を踏み入れられない特別な場所から国宝御本殿を間近に拝観出来た。春日大社国宝御本殿は日本の代表的な神社形式のひとつである春日造りの典型で、四棟が横一列に並んでいる。屋根は檜皮葺で、柱は鮮やかな本朱で塗られており、全国的にも大変珍しいものという。また、社殿と社殿の間にある御間塀には獅子や神馬などが描かれ、絵馬の原型ともいわれている。案内人の神官より、「20年に一度しか見ることの出来ないこの獅子や神馬です。よく見て脳裏に焼き付けておいて下さい」とアナウンスがあった。改めて見いる。さすがにすばらしい絵馬の原型を見たような気がした。
また今回初めて御本殿に祀られている神秘の石「磐座」を公開した。春日大社に伝わる文書や絵巻等にも記載がない謎の「磐座」だが、春日大社の歴史、特に御本殿の創建に深い関わりがあると考えられているという。
後殿御門は明治維新以来、長い間閉ざされたままになっていたが、第60次式年造替を機に約140年ぶりに開門され、参拝出来た。国宝御本殿の真後にあるお庭、後殿には災難厄除けの霊験あらたかな神々様が鎮まりになっているという。神々の宿る140年ぶりの神庭と思うと、緊張の連続であった。
この春日大社について少々説明しておきたい。
春日大社は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年(神護景雲2年)に創設された奈良県奈良市にある神社である。旧称は春日神社といった。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社という。
神紋は「下り藤」。昔から大社周辺は下り藤が多かったのであろうか、近くに藤園があるが20種以上の藤が見事に咲いていた。
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※春日大社「南門」。門を入ると特別参拝受付があって、中へ入ることが出来る。 |
※この入口を入ると四柱が鎮座する御本殿。御仮殿へ移動中なので公開した。20年に一度しか入れない禁足地である。 |
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※下り藤の花。山藤も多く、花の匂いがあって楽しい。 |
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全国に約1000社ある春日神社の総本社である、「武甕槌命」神様が白鹿に乗って、今の茨城県鹿島神宮から来られたとされることから、「鹿」が神使とされている。
そして先にも記したが平成10年12月にユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の一つとして登録された。
春日大社の歴史について、もう少々記してみる。
奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのが始まりとする説もあるようだが、社伝では768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、大阪の枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓に四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。
ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行なわれていた可能性も出てきているという説もある。
藤原氏の隆盛とともに春日大社も隆盛し、平安時代初期には官祭が行なわれるようになったと記されている。
春日大社の例祭である「春日祭」は、賀茂神社の「葵祭」、石清水八幡宮の「石清水祭」とともに「三勅祭」の一つとされている。850年(嘉祥3年)には「武甕槌命」・「経津主命」が、940年(天慶3年)には朝廷から「天児屋根命」が最高位である「正一位」の神階を授かったとも記されている。
藤原氏の氏神・氏寺の関係から「興福寺」との関係が深く、813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、大社の祭神・武甕槌命の本地仏とされたという。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていったようである。
11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴が度々行なわれるようになった。明治維新の神仏分離で興福寺の支配を離れ、1871年(明治4年)官幣大社春日神社となり、1946年(昭和21年)から春日大社と称するようになった。
ここ2〜3年、「伊勢神宮」や「出雲大社」等々、何年に一度かの一大行事が続いている。物事を見つめ直す大事な行事であり、又、仕来りや古式の伝承も大事な行為であることを再認識した次第である。
参考資料
春日大社パンフ
『日本史年表』岩波書店
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