日本三大奇景は、@大分県中津市「耶馬溪」、A群馬県「妙義山」、B香川県小豆島「寒露渓」と言われている。 耶馬溪の名付親「頼山陽」について記してみたい。 江戸時代、1780年(安永9年)、父「頼春水」の子として大阪で生まれ、広島で育っている。
天下の文豪といわれ、儒学者であり、南画の大家であり、書道家でもあった。 その昔、山国谷としか言われていなかったこの地区に「耶馬溪」という名を付け、「耶馬溪山天下無」と日本全国に教え広めたと言われる。その方こそがこの「頼山陽」であり、我が故郷、中津市に縁の深い人である。
頼山陽は「社会は活きた学校で、旅は活きた学問の場所であり、人は旅によって多くの興味を感じ、詩や画を書き、自己の価値を高めていく」という考えの持ち主であった。
時は1818年(文政元年)3月6日、頼山陽が39才の時、日本で当時一番外国と行き来の深い長崎を目指して広島から九州へと旅立ったのである。
下関に始まり、博多、佐賀、長崎、熊本、鹿児島と旅をし、大分県竹田の田能村竹田先生(医師・文人・詩人・頼山陽の友人)と会い、日田の「咸宜園」(1817年〔文化14年〕廣瀬淡窓が豊後国日田郡堀田村に開いた漢学塾を各層に広く開放し、儒学、作詩を教えた。江戸時代最大の私塾で明治26年まで存続した)を訪れている。
そして、京都で出会った ※「雲華上人」のいる中津郊外の「正行寺」を訪ねる途中、12月5日、運命のこの豊前国、山国谷へと行くことになったのである。
※上人とは知恵があって、徳が高く人々を善導出来る高僧のことで、親鸞、蓮如、日蓮上人はよく知られている。雲華上人は豊前国(大分県)中津の郊外古城正行寺・第16世住職で学者であり、当時一流の文化人であったと言われていたようだ。更に京都東本願寺学頭(現大谷大学学長)までなった人で、江戸時代の有名な文豪。今回の主人公「頼山陽」とは昵懇の仲であったと言う。
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※「頼山陽」が立ち寄ったと言う、中津の「正行寺」山門。中津市には寺が何十寺とあるが、一番大きいと言われる寺である。
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※正行寺の「庫裏」。この中に「頼山陽」が泊ったという部屋がある。 |
以下、小説風に「頼山陽」の足取りを追って記してみる。
旅立ちの同年、12月5日昼下がり、半合羽に菅笠、脚絆に草鞋履き、振り分けの背中にぶらさげた瓢の中身は上酒という。気ままな一人旅。(広島から旅立ちは門人・後藤松陰と二人旅だったが、長崎より頼山陽一人旅となる。)日田から伏木峠を越えて、山国谷の守実へ下って来た。 小男でやせっぽ、欲目にも威風堂々とはいえないが、鼻が高く、頬骨がはり、眼光炯々として只者の相ではない。この人物こそ、天下の文豪・39才の「頼山陽」その人であった。 日田から山国谷の守実に通じる、1805年(文化2年)に完成したと言う一ツ戸隧道に入り、頼山陽は夜になってタイマツを買い、山を穿って作ったこの隧道に入った。岩窓から川を覗き、月、渓水にありて、朗然たるを見る。(川に映ったお月様があまりにも美しかった。) この一ツ戸隧道は1791年(寛政3年)10代、日田郡代の命によりトンネル堀に着工、14年の歳月をかけ完成した。「伊能忠敬」が測量をしていると聞き、深川の八幡宮の像を思い出す。その晩は宮園に泊り、12月6日、朝霧の晴れるのを待って宿を発ち、「柿坂に至って孤店に憩う」とはじめて柿坂を図巻記に紹介している。
朝早くから、周りの山の様子、水の流れ方、自然の石の有様などに心を躍らせながら、「沓掛の渡し」という、川の浅瀬を渡っている。
そして柿坂に着いたのであった。
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※「頼山陽」の間。正行寺で「頼山陽」が泊ったという間である。今でも保存され見ることが出来る。
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※頼山陽の間に自身が書いた額。 |
「耶馬溪図巻記」の画面の中に描かれている「善正寺」の住職を今回帰郷した折に訪ねた。
頼山陽は無類の酒好きで、しかも灘の生酒にこだわる所があって、瓢につめてきた上酒で燗酒を作り、たまたま里の猟師が獲ってきた野猪を酒の肴に、眼の前の風景…屏風をひらいたような、滝のかかる大岩峰にしなやかに松を配した、自分好みの景色を絶賛しながら、店主と猟師の3人で盃を交わしたと言う光景が目に浮かぶようである。店が「喫猪亭」と聞き、住職に訪ねると、昔は旅館みたいな家であったが火災にあい、今は民家で、あの家の場所ですと案内してくれた。また「図巻記」に書かれていたくらいだから「頼山陽」と寺は何か拘わりはなかったのでしょうかと住職に聞くと、先々代から聞いたという話を聞き出した。 1764年(明和元年)、豊後竹田の満徳寺に生まれた雲華は、中津市永添の古城の名刹「正行寺」16世の嗣法となったが漢学を亀井南冥に学ぶ一方、蘭画も好む。豊前を代表する文化人で頼山陽より15才年上であった。2人が初めて会ったのは、この時より10年も前の文化5年で、上人は画僧の慈仙らと広島の頼山陽を訪ねている。その後、頼山陽が、大阪で貧乏暮らしをしていたころ、たまたま本願寺の大阪別院に来ていた雲華に援助を受けてからのち、頼山陽は雲華に兄事している間柄であった。 中津に着いたその夜、早速酒を酌み交わしながら、頼山陽がはじめて観てきた山国谷の奇岩美を褒め上げるので、「まだまだ、君は羅漢寺や仙岩山を観れば、更に驚き喜ぶだろう」と雲華は本気で勧めた。
12月9日、2人は青村出身の墨壮ほか数名の文化人を連れ、宇佐郡麻生谷の仙岩山(宇佐耶馬溪)を見学したが、1本の歯のように連立する岩峰群を見ても、一向に頼山陽は喜ぶ様子がみえない。
桜峠を越えて、その夜は屋形谷の旧家屋形家に泊り、翌日羅漢峠を越えて羅漢寺に詣でたが、ここでも満足そうな顔がみえない。その夜、石段下の宿で頼山陽が口にしたのはこのような言葉だったと言う。
「山は水を得なければ勝地とはいえない。石は樹を得なければ趣がない。仙岩山は水がない、羅漢寺は人工が多すぎる」
12月11日。
「自分も、この優れた自然美の極致山国谷に、また来ることはあるまい。今一度、あの場所を胸に刻んでおきたい」と道を西へ進み、峠を越え、山国川の本溪へ出て柿坂へとのぼっていき、数日前に猪料理に舌鼓を打った店へまたまた立ち寄ったのである。見覚えのある亭主が目を丸くして問いかける。
「あんた、こないだ猪汁を一緒に食べたお客さん、今日はまた、なんで来なはったで?」「先日大変ご馳走になった。猪汁もおいしかったが、ここの景色が忘れられんので、もう一度胸に刻むために戻って来た」
皆はたちまち意気投合。頼山陽は、雲華上人と心に残った目の前にそびえ立つ岸壁の前の岩場で、また席を作りお酒を酌み交わしたのである。
そして、その自然の見事さは、自分の筆ではとても描き尽せない。「筆舌に尽くしがたし」といって筆を投じた…といわれ、その場所を今では「筆を擲(な)げた峰」と書いて「擲筆峰」(てきひっぽう)と呼ばれている。
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※柿坂の善正寺の山門。住職の話を聞き、この寺も頼山陽とかかわりがあったようだ。
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※頼山陽が筆を投げたと言う「擲筆峰」の景観。今は松の木は枯れ、昔の面影は薄いと言われるが紅葉は美しい。 |
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※岩壁に緑の木が連なる風景は素晴らしい。
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また別記には、前に記したが立ち寄って猪を食べたという店は、今はもうない。長い間「喫猪亭」と呼ばれていたと記されているが、その場所は民家が建っていた。
その後、柿坂の「擲筆峰」は耶馬溪名勝中の名勝として有名になったが、残念なことに現在の景観は、対岸の岩峰に景趣を添えていた老松も枯れ木を残し、当時の姿を消し、石岸は護岸工事のため、頼山陽のいう自然美の面影は失せている。3年前の水害で「頼山陽先生詩碑」の上部が流されたが、500m下流でみつかったと言う。2年前に一段高い所に立派な碑が完成していた。
最近大分県大分市に評判の大分県立美術館がオープンした。展示室などいろいろ好評のようであるが、大分県出身のコレクション展があって見る機会があった。
その中に頼山陽が九州歴訪した折に親しくお会いしたと言う、竹田の田能村竹田が書いた「猿猴桂樹図」と「老樹帰漁図」の2点の展示をたまたま見つけ、縁を感じながら時間をかけて見入った。
こうして歴史の足跡を追いかけながら旅をして、当時の時代を想像するのも勉強になり、生きがいにもつながる。
文中の頼山陽の言葉に 「社会は活きた学校で、旅は活きた学問の場所であり、人は旅によって多くの興味を感じ、詩や画を書き、自己の価値を高めていく」と言ったが、まさしく旅は人生そのものの価値観や活きた学問の場所かも知れないとつくづく思う。
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※新しく建立された「頼山陽先生詩碑」
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※この石碑に書かれているように山国川の氾濫で流され、500m下流で見つかった。 |
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※山国川の氾濫で流され、500m下流で見つかったと言う石碑の上部。
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