『歴史探訪』(109)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
東海道ネットワークの会は、今年の3月で休会、解散になる予定でしたが、これを惜しむ会員の声と会長の決断によって継続することになりました。大半の会員は高齢化して、強行なスケジュールは立てられないでしょうが、私もなんとか出来る範囲でお付き合いしようと思っております。東海道中踏破以来、20年経ち、往年の体力と気力は衰え、極力無理をしないで行動するようにしています。
「味の旅」第9巻を出版された浜野さんのような博識も探求心もありませんが、行動範囲を狭めて、花鳥風月を愛でて歩くことがせいぜいではないかと思います。世田谷に住んで50年近く経ちましたが、今回は自分の手足と耳目で拾った史実を頼りに歴史探訪します。
@三軒茶屋 大山道標
国道246号線と世田谷通りの分岐点に、高さ2.4mの道標があり、正面が「左相i通・大山道」、左に「右富士、世田谷、登戸道」、右に「此方二子通」と刻まれています。江戸中期から大山詣が盛んで、大山には雨降り転じて大山阿夫利神社があり、講を組んで雨乞いに出掛けました。分岐点には石橋屋、田中屋、角屋という三軒の茶屋があり、地名の由来となりました。今では東急田園都市線が地下を走っていますが、前身は通称玉電が渋谷−溝の口までありました。多摩川で砂利を採取して運ぶ通称ジャリ電が客車に昇格して玉電になりました。三軒茶屋から未だ路面電車が下高井戸まで走って居り街の名物になっています。
A松陰神社
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で今脚光を浴びています。世田谷通りにバス停「松陰神社前」、玉電に乗りますと3つ目が「松陰神社前駅」です。松陰は長州藩士で、若いとき脱藩して全国を行脚し、外国船が近海に出没、侵略を虎視眈々と狙っているのを知り、故郷の萩で松下村塾を開き、日本の危機を訴えました。門下から高杉晋作、山県有朋ら英傑を輩出しました。ペリーが4隻の黒船を率いて来航しますと、世界に大きく眼を開く為に渡航を企てましたが叶いませんでした。これが大老の井伊直弼主導による安政の大獄に連座し、江戸伝馬町の牢獄で刑死しました。遺骸は千住小塚原に葬られました。後に門下生の高杉晋作、伊藤博文らによってここに改葬されました。
B世田谷ボロ市と代官屋敷
天正6(1578)年に始まったボロ市は12月15、16、正月15、16に開かれ、代官屋敷を中心に、農具、骨董品、植木類が並び冬の風物詩となっています。寛永10(1633)年、彦根藩江戸屋敷賄料として世田谷領15か村(後に20か村)を管理する代官所が置かれ、代々大場氏が任じられ、大場代官屋敷とも呼ばれました。大場氏は吉良氏の四天王の一人で、吉良氏没落後、世田谷新宿(上町)に帰農、徳川家康入府後検地の代行を命じられました。
C城山通りと世田谷吉良氏
世田谷吉良氏は下野国足利庄(栃木県)を領した足利義氏を祖とします。義氏の長男泰氏が足利庄を継ぎ、この系統から尊氏が出て室町幕府を開きました。次男長氏は三河国吉良庄を領し、この家系から忠臣蔵の敵役上野介が出ました。三男国氏は今川氏の祖で、四男義継の系統が世田谷吉良氏の祖であります。現在城山通り沿いに城址公園として城跡の一部が残っており、戦国時代も居城として使われましたが、北条氏滅亡後、8代240年の歴史は閉じられました。
D靜嘉堂文庫美術館 民家園と次大夫掘
7年前、自宅を建て替えた際、仮住いとして一年弱住んだ家は岡本にありました。国分寺崖線の天辺に位置し、富士山が見える都内富士見百景のひとつに数えられる地点まで徒歩数分で行けました。尾根伝いに5分程歩きますと、靜嘉堂文庫美術館へ裏木戸から入ることが出来ます。ここは旧三菱財閥の岩崎彌之助、小彌太父子により設立され、約20万冊の古典籍(漢書12万冊、和書8万冊)と5千点の和漢の古美術品が収蔵されています。中には「曜変天目茶碗」など国宝7点、重文82点があり、時々有料で一般に展示されます。これらは、彌之助が明治の日本が急激に西欧化して行く中で東洋の文化財が散逸して行くことを危惧し、収集保存に努め、さらに小彌太によって拡充されました。文庫の建物は大正13(1924)年建てられ、青銅葺の屋根、タイル貼りの洋館、美術館は平成3年竣工。奥の岩崎家納骨堂は英人技師コンドルの設計です。
まわりの庭はよく手入れされ、最近の開発で都市化が進んだ周辺から見ると別天地のようで、散策には最適であります。周辺には、仲代達也の稽古場、無名塾のある無名坂、聖ドミニコ学園、農園もありますが文庫の裏手から女坂を下ると岡本八幡神社があります。この一帯はかつて玉川八景の一つ「岡本の紅葉」と呼ばれた所です。石段下には、歌手のユーミン夫妻が奉納した石燈籠があり、民家園は農家旧長崎家の建物を移築、公園内は蛍の人工飼育所があり、6〜7月、源氏蛍、平家蛍の光の乱舞が美しい。公園前には次大夫掘が流れ、世田谷の原風景が残っています。次大夫掘は旧今川家家臣の小泉次大夫が幕命で開削した灌概用水で、慶長2(1597)年から15年がかりで完成させました。多摩川の水を和泉多摩川駅より堤防上の上流1キロメートルから取水し、大田区六郷まで23.2キロメートルを流れる用水です。公園の水は現在野川から汲み上げ浄化した水で、ザリガニや小魚を捕える子供達の遊び場になっています。堀の護岸はコンクリート擁壁は使わず自然の土のままで、昆虫や小魚は棲み易く、造園の大家、元農大学長進士五十八氏も絶賛されていました。
E等々力渓谷と等々力不動尊
ここは東京23区内唯一の渓谷で、国分寺崖線からの湧水で到る所から水が湧き出て滝となり、その音が轟いていたので等々力という地名の由来となりました。この滝に打たれて行をする修行僧が各地からやって来て不動明王院が建てられました。戦国時代に吉良氏が訪れ戦勝祈願をしたという記録もあります。渓谷は約1キロにわたって高低差15メートルの切り立った両岸に林が鬱蒼と茂り、秋には美しい紅葉も見られます。谷底には矢沢川が流れ野鳥が遊んでいます。斜面には7〜8世紀頃の横穴の古墳が3基あります。
戦前には古墳を残してゴルフコースがあったようで、渓谷を跨ぐ橋がゴルフ橋と称して今は無き昔の姿を彷彿させます。
F砧ファミリーパークと運動公園、世田谷美術館
戦前は二子玉川から砧方面に行く玉電が走っていたようですが、今は廃線となり、昔の軌道は細い道路となっています。ゴルフ場は撤収され、砧ファミリーパークと名を変え、広大な都有地の中に、サイクリングコース、美術館、運動公園があり、子供のサッカー場、野球場、プール、テニスコート、ゴルフ練習場があります。桜の季節は遠くからの花見客で広い駐車場は満杯になり、それでも入場を待つ車の長い列が続きます。世田谷区には、桜、桜丘、桜新町、桜上水と桜のつく町名が4つあり、それぞれ街路樹は美しい桜のトンネルとなって通行車が見物渋滞を起こすこともありますが、ファミリーパークの桜は街路樹のように電線等に邪魔されずに枝を伸ばし自由奔放に咲いており人気の秘訣になっています。
秋は銀杏が実り、風の吹く夜の翌日には、ビニール袋いっぱいの収穫があります。
普段は広い遊歩道で花を愛でたり、森林浴、思索にふけったり、運動不足の解消に努めるのもよいのではないでしょうか。
G東宝撮影所と仙川の花鳥風月
区内を流れる仙川沿いに、昭和7年東宝撮影所(当初はPCL写真科学研究所と称した)が設立されました。ここで黒澤明監督は昭和29年、三船敏郎主演で映画史上に残る名作「七人の侍」を作りました。今はここで何をやっているのか知る由もありませんが、入口にはゴジラの大きな絵が飾ってあります。散歩の途中で時々、昔のチョンマゲ姿や、当時のスタイルの男女の一行に出会うこともあります。主に休日の朝ですが、自宅から、環八、水道道路を横断し、ウルトラマンの街祖師谷大蔵の駅前を通り、成城学園前駅まで約3キロの道を歩くことがあります。駅前のUCCで食事後、足を延ばして介護施設に入院中の母を見舞う途中、冬の晴れた朝は、地下を走る小田急線のトンネルの上から見る富士は素晴らしい。帰途は少し戻って仙川の花鳥風月を愛でる楽しみもあります。鳥は川面に浮かぶ野鴨の家族、花は川岸から南へ枝を伸ばして咲く桜です。但し満開の一週間だけ。
夜はライトアップされて川面に映える花の見事なこと。世田谷通りまでゆっくり眺めてバスで帰ります。
H世田谷文学館と蘆花恒春園
世田谷には多数の文人、作家が住みその風土を愛して文学作品に採り上げたものも多い。
私の知る限りでは、大宅壮一、松本清張、志賀直哉、斉藤茂吉等です。昭和7年にオープンした文学館は、作家達の文学遺産を身近なメッセージとして捉え、音楽、演劇、映画などの他の芸術と交流させながら生きた文学の呼吸に触れる場をテーマに運営されています。私が初めて訪れたのは20年程前でしたが、その後何回か見学しました。イベントは松本清張、川端康成、北杜夫等についてでありました。作家の原稿、執筆する姿、経歴等も展示され、大変感銘を受けました。
蘆花恒春園は文学館の近くにあり、数回行ったことがあります。蘆花はトルストイに会って示唆を受け「美的百姓」と称して世田谷に住み、晴耕雨読の生活をし、6年間の生活記録を『みみずのたはごと』として大正2(1913)年出版し、自宅を恒春園と名付けました。『みみずのたはごと』は上下巻があり、上巻は読みましたが、下巻はまだです。当時の世田谷区粕谷村は農家が28軒あるだけの静かな村で、武蔵野の面影が残る原野約3万坪を切り開き、創作生活をしながら農耕も行い、理想の世界を築きましたが、今の常識では考えられず、明治を生きた人のスケールの大きさとバイタリティを感じます。蘆花の死後、夫人の申し出により、土地、建物、遺品一切を都に寄贈され、昭和43年蘆花恒春園が開園しました。お陰で我々は蘆花の足跡と時代背景を学ぶことが出来ます。蘆花としては至極当り前の生活をし、余ったものはお世話になった世界にお返しするという気持でしょうが、現代人の私達には到底理解できません。時代の変化が人間を矮小化してしまうのでしょうか。キリストの教え「汝ら、己が為に、宝を地に積むな」という言葉を思い出しました。
I馬事公苑と農大収穫祭
数日前の新聞に「2020年 東京五輪の計画を見直す」という記事がありました。東京湾中央防波堤で、20億かける「海の森クロスカントリーコース」の計画を見直し、馬術競技は1964年五輪で開催した実績のある馬事公苑で代替する、という発表でありました。若し私が2020年まで元気でいれば、徒歩圏内で五輪競技が観戦できることになり大変楽しみであります。馬事公苑の近くに、休日の朝、よく行く外食産業の店舗があり、窓から見える東京農業大学「食と農」の博物館との間にある広場では、犬を連れて散歩する人やダンベルを両手に持ってリズミカルに歩く人の姿を見て元気をもらうことが出来ます。有線放送でしょうか、モーツアルトの曲が終って店を出ますと、厩舎から人に曳かれて散歩に出掛ける2頭の馬に出会うことが出来ます。食事後は未だ開いていない馬事公苑のまわりを一周して帰ります。
件の店舗の向かい側に東京農業大学があります。秋の収穫祭は毎年楽しみにしています。東大の五月祭、慶應の三田祭と並んで、大学三大祭と云われています。開催2ヶ月前から、植物をあしらった入口の飾り付けが毎日少しずつ完成し、ムードを盛り上げます。昨年は小2の孫娘、妻と3人で出掛けました。それぞれお目当てがあり、孫娘は動物との交流や昆虫の展示、妻は食べ物と物産展、私は環境に配慮したインフラの整備、研究、展示に興味を覚えました。
以前は酒を飲み過ぎて急性アル中で救急車で運ばれる豪傑もいたようですが、それも昔のことで、今は女子学生が実行委員長を務めており、大変スマートでアカデミックなお祭りになりました。
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