東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(111)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 前回に引き続き、街道歩き、五街道踏破を回想、歴史探訪し、以後現代に至るまでの日本列島の変遷から将来について展望します。
 1994年、突然思い立って東海道中を始め、翌1995年に中山道を歩きました。その勢いに乗じて1997年、奥州街道を歩き始めました。奥州街道は宇都宮までは日光街道も兼ねており、その先は青森県まで700杵米以上続いているものと思い、その覚悟で出発しました。ところが、江戸時代初期の街道制度では、奥州街道は白河までであったことが分かりました。小峰城到達後は、下諏訪から甲州街道を東に向って歩き、1999年師走に、約6年近くかけて五街道踏破を達成することが出来ました。

 日光街道、奥州街道の見処

 @芭蕉旅立ちの碑 芭蕉は深川に住んでおりましたが、芭蕉庵を引き払って、船で大川(隅田川)を遡り、今の南千住から奥の細道を歩き始めました。今では634米のスカイツリーが間近に聳えておりますが、私が歩いた頃は未だ建っておらず、都内で唯一残っている都電が早稲田―三ノ輪橋間をゆっくり走っております。千住大橋を渡ると第一の宿場、千住がありました。

 A草加宿と矢立公園 せんべいで有名な草加宿を過ぎますと、日光街道と綾瀬川に挟まれて、松並木のある静かな散策路が一杵米程続きます。墨汁と筆を組み合わせて、万年筆のように何時でも取り出して物が書ける道具を矢立てと云いますが、芭蕉もここで執筆したであろうと、矢立公園としたのは粋な命名であると思います。近くに東武線の松原団地という駅がありますが、戦後の住宅難に対応して日本住宅公団(今のUR)が巨大な住宅団地を建て駅名になりましたが、今では近代的な中高層住宅に建て替えられており、駅名は獨協大学前に変えた方がよいのではないかと大学関係者が仰っておりました。

  
最後の都電、 荒川線の三ノ輪橋駅    日光街道と綾瀬川に挟まれた矢立公園

 B小山にて関ケ原の前哨戦作戦会議
 天下人秀吉が亡くなりますと家康が大名達と当時御法度であった姻戚関係を結び横暴を極めます。これに異を唱える石田三成を追放、三成は佐和山に蟄居の身となります。さらに五大老の一人上杉景勝に上洛せよと迫り、家老の直江兼続は、正々堂々と思う処を述べた挑戦状(後の世まで直江状として語り草になった)を送り、これを見て激怒した家康は直ちに会津へ上杉征伐に向います。小山まで進軍した時、三成の旗揚げを知り、作戦会議となりました。当初は三成と兼続がはかって挟み討ちにする作戦でしたが、家康軍の前線は宇都宮のはるか北方、白沢の先まで伸びており、沿道の庄屋達に鬼怒川を渡る際の協力まで取付けておりました。

 C杉並木 宇都宮から岐れて東照宮へ向う今市からの杉並木は素晴らしい。いつ歩いても大きな感動が得られます。画伯に昔描いた作品を提供してもらいました。

杉並木

 D英国人女流旅行家イザベラ・バード
 知人から、明治の初期に来日して『日本奥地紀行』を著した勇敢な女性が居たことを教えられ、丸善で翻訳本を購読しました。
 横浜に上陸し、少し前に来日してローマ字を広め、明治学院大学を創設したヘボン氏を訪ね、日光の金谷氏を紹介してもらいました。
 金谷氏は代々東照宮で儀式の際、演奏する雅楽の指揮者を勤めて居りましたが、明治になって職を失い、自宅で旅館を開業しました。今の金谷ホテルです。バード氏は横浜で少年と馬を雇い、北海道まで旅をしました。東照宮で陽明門はじめ建物を見たときの感動が細かく綴られておりました。ただ、雅楽を鑑賞したときの感想は、文化の違いに辟易したようで、「不協和音」という表現が印象的でありました。

 E田一枚植えて立ち去る柳かな 太田原は那須の与一の里です。源平の合戦最後の壇ノ浦で、平家の武将が乗る船で、扇を高く掲げ源氏方に「これを射てみよ」と嗾けます。当時の合戦は優雅な場面もあり、源氏方の大将に促されて、与一が名乗りを上げ、見事に扇を撃ち落します。この活躍により、与一は生涯那須の領地を安堵されました。今でも与一の人気は大変なもので、初夏になると「那須の与一は三国一の男美男で旗頭」という田植歌が聞かれます。この辺りは穀倉地帯で、芭蕉は芦野の田で上記の句を詠みました。

 F白河の関と小峰城 奥州街道の終点は小峰城です。関を越えると福島県に入ります。ここは名君松平定信が治めておりました。寒冷地の為、悪天候で米がとれないこともありました。定信は寒さに強い蕎麦の栽培を奨励しました。浅間山が噴火して噴煙が天空を覆い、天明の飢饉となったときも、白河領内では一人の餓死者も出さなかったことで定信の藩政が評価され、老中に抜擢されました。当時は田沼意次、意知親子が権政を振い、好景気ではありましたが、賄賂政治が横行しておりました。1779駒も御進物 定信は寛政の改革を断行し、綱紀粛清をはかりました。
 「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」暴利を貪った商人や身入りのなくなった役人どもは狂歌に託して昔を偲んだという。定信が引退して住んだ隠居所が江東区白河町としてまだ残っております。

 甲州街道見処

 @諏訪大社の石仏と諏訪湖
 甲州街道と中山道は共に日本橋を出発し下諏訪で合流しています。下諏訪には全国で5千社という最も多い分社を持つ諏訪神社の総本山があります。春宮と秋宮があり、中山道中では秋宮に参拝しましたので、今回は春宮から日本橋に向ってスタートしました。大きな注連縄がある秋宮に対し、春宮の特徴は境内の奥に大きな自然石があって、その上に首だけが乗っている石仏です。「芸術は爆発だ」と云って一世を風靡した岡本太郎氏が絶賛したことで有名になりました。次の宿場上諏訪は諏訪湖の畔にあります。湖は日本で10番目の大きさですが、何と云っても冬の寒い日に湖面が凍結したとき、氷が膨張してできる御神渡りは圧巻です。最近は地球温暖化で毎年は見られなくなりましたが、昔は神様が渡った跡だと云って、その年は豊作になると云われました。諏訪湖は水が澄んでおり、洗浄等で多くの水を使う精密機械工業が立地しております。オルゴールの生産は日本一で、お昼を報らせる音楽はベートーベン作曲第九交響曲で歌われる合唱で有名な旋律でありました。

 A穴山に志鎌山荘を訪ねる 中央線に穴山という駅があります。家康の家臣で穴山梅雪という武将の居城があったことから命名されました。家康が天下統一間近の信長を訪ね、その計らいで堺の商人達の接待を受けているとき、本能寺の変が起きました。堺の街は家康を襲う明智方の兵が居り、家康は10人前後の伴まわりと山越えをして舟で居城まで戻りましたが、不案内な山中で体を張って家康を守り、討死したのが穴山梅雪でありました。
 家康の天下になって、梅雪の子孫は一国一城を安堵されました。穴山駅の近く、日本で最も日照時間が長い明野という地で、赤松の林を買い、松を切り出し、製材に出し、ご夫妻で山荘をお建てになった志鎌夫妻に、建築や納材で相談を受けたご縁で懇意にして頂き、完成したばかりの山荘を訪ねました。まわりに小さな渓流があり、画伯は水車があればよいという発想で、提案を兼ねて水車の廻る山荘の想像図を描いてプレゼントしました。

 B風林火山 武田信玄は京都に風林火山の旗を建てようと、怒涛の勢いで三方ケ原に織田徳川連合軍を蹴散らしましたが、上洛一歩手前で病に倒れました。甲府駅前には大きな信玄の座像があります。信玄の周辺では数々の名勝負がありました。甲州は海がなかったので、敵に塩を贈った上杉謙信。その謙信と勝負がつかなかった川中島の戦い。しかし、上洛の夢は果たせず、信玄の死後、長篠で鉄砲を三段構えで連射する新戦法で織田徳川連合軍に敗れ、以後嫡男勝頼は急坂を転げ落ちるように敗退滅亡してしまいました。甲州街道には武田軍団の繁栄、衰退の足跡が多く残っています。

  
諏訪湖を望む    甲斐駒ヶ岳
志田辺り。雨の甲州街道

 C猿橋 大月の次の宿場は猿橋です。岩国の錦帯橋、木曽の桟と共に日本の三大奇橋と云われておりました。架橋の時期は不明ですが、紀元600年頃の書によれば、猿が藤蔓を伝って、互いに手をつなぎ、全体を一本の縄のように揺らして谷を渡るさまを見てヒントになり考案されました。その後改良を重ね、谷の両側から材料を重ねてせり出し、中央をつないで造られております。トヨタの技術者がこの橋にヒントを得て、積層スプリングを考案しました。力学的にも理に叶っており、一人が乗っても揺れるが、百人乗っても落ちないという。

  
猿橋奇景    笹子峠

 D玉川上水の取水口 江戸時代、玉川兄弟が江戸に飲料水を送る為、掘ったのが玉川上水であり、当初は日野宿の先、青柳から掘り始めました。しかし、地盤が軟弱な為、水が地下に浸透してかなわず、もっと上流の羽村から取水して見事に完成しました。地図の上では青柳から掘った跡が青い線で示されていますが北へ行って途切れています。

多摩川を越える。日野橋あたり

 E内藤新宿と超高層ビル 当初甲州街道では日本橋の次の宿場は高井戸でありましたが、両者の距離が長く20杵近くありましたので、中間の地点に内藤家の領地があり、ここを宿場と定め内籐新宿と命名されました。戦後、広大な浄水場を地下に移設し、上に超高層ビルが林立しました。若い頃、土木技師として電力を淀橋変電所から地下を通して供給する工事に携わったことがあり、今の発展振りを見ますと感慨無量であります。

 
新宿副都心

 以上、日光街道、奥州街道、甲州街道について駆け足で探訪して参りました。五街道踏破後15年が経ちましたが、日本列島は大きく動いております。阪神淡路大震災から20年、復興は着実に進んでおります。東日本大震災から4年、復興は今一ですが、今日本人全体の底力が試されております。2020年東京五輪招致が決定し、まちづくり、インフラの整備等、世界中から注目されている中で、準備は着々と進んでおり、海外からの観光客は中国富裕層の爆買ツアーも含めて、年間2千万人になろうという勢いで増えて行くでしょう。
 これも世界が平和であればこそであります。
 3月に家族で軽井沢まで旅行し、最後の冬を満喫して参りました。北陸新幹線が金沢まで開通し、東京から僅か2時間28分で到達可能となりました。加賀百万石の街から、文化の香りが漂って来ます。福井、敦賀までは2022年に開通します。
 3月に某団体が主催する首都圏問題委員会でお話を聞いて参りました。リニア新幹線が開通する2022年より遥か未来、2050年までの「国土のグランドデザイン」について語られておりました。これには2つのキーワードがあり、一つは人口減少と少子高齢化、もう一つは巨大災害の切迫であります。2010―2050年にかけて、人口が現在の半分以下になる地域が居住地域の6割以上になり、日本全体で2050年に9,700万人まで減少し、しかもその4割が65才以上の高齢者になると予測されています。この対策について、主に中山間地域ですが、コンパクト+ネットワークによる機能維持強化が必須になります。
 具体的には、商店、診療所などの施設や地域活動を行う場を歩いて動ける範囲に集め、周辺集落とはバスやタクシーで結んでネットワークを築き、「小さな拠点」になるよう形成し、それらをICT(情報通信技術)で結びます。これらの小単位のネットワークで人口減少地域を覆うという構想です。
 この構想について多くの識者が見解を述べております。
  ○日本は観光立国を目指せ
  ○田園回帰→二地域居住のすすめ
  ○地方創生→一極集中を避けよ
   又、海外の例を引いて
  ○シンガポールに学べ
  ○デンマークを参考にせよ
 他にもありますが、日本は未だかつて経験したことのない状態に突入するのですから、正解はなかなか見つからないのではないか。
 我々は多くの選択肢の中から自分に最も適した対処をするべきではないでしょうか。
あと5年もすれば見通しが見えて来ると思いますが、如何でしょうか。

出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/

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