「イギリス」から独立して68年目にあたる2月4日、日本に住む「スリランカ」の人達による独立記念日の式典が都内の会場で盛大に行われた。日本在住のスリランカの要人、日本の政治家や要人も参加。会場は400〜500人のスリランカの人達や関係者で賑わった。式典は午後3時から始まり、終了したのは4時間以上過ぎた午後7時頃だった。
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※正面スクリーン。この68年目の独立記念日と映像。 |
※式典の様子。国賓の方々がキャンドルらしきものに火を灯す儀式。 |
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※スリランカの要人達とお坊さんらしき人々が正面に並んだ。後ろは国旗。 |
※会場風景。400〜500人の人達で会場は埋まった。 |
どこの国も歴史は複雑で重く、日本の国が戦国時代等があったように、この「スリランカ」もいろいろ紆余曲折を経て現在に至っていることが良くわかった。
まず、公用語で言うと正式にはシンハラ語、タミル語、英語と使われ、日本もアイヌ語(北海道)があるように、多くの人種が居て様々な言語が使われている。
日本語の表記ではスリランカ民主社会主義共和国、通称は「スリランカ」。漢語ではセイロン島を「錫蘭」とも書き、略語は「錫」と言う。又、仏典では、人口の多数を占めるシンハラ人にちなんで、島名をシンハ・ドヴィーパ(ライオンの島。師子の島)といったことから「師子国」とも記されている。
この式典では参加者全員にわかるように、シンハラ語、タミル語、英語、日本語の4ヶ国語の言葉で進行したので時間がかかったとも言える。
式典の最初に国歌を斉唱したがシンハラ語とタミル語で歌い、親日を意味してか、日本をたたえての事か、日本の国歌「君が代」も斉唱した。日本国内での行事ではあるものの君が代を斉唱し、ジーンと心に打たれる思いがわいてきた。
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※在日スリランカ大使の挨拶。 |
※当日のスリランカの新聞。 |
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※当日パーティの会場にあったケーキ。スリランカ、68回目の独立記念日と書かれている。 |
※「君が代」国歌斉唱の時「日の丸」の映像が写された。 |
※式典の後、スリランカの歌手がスリランカの歌を
十数曲熱唱する。
スリランカは1948年(昭和23年)2月4日、イギリスから自治領(英連邦王国)のセイロンとして独立。1972年(昭和47年)にはスリランカ共和国に改称し、英連邦内の共和国となり1978年(昭和58年)から現在の国名となった。
人口は約2,027万人で島国。通貨はスリランカ・ルピーである。セイロン島の位置はインド洋にあり、ベンガル湾の南西、アラビア海の南東に位置する。インド亜大陸とはマンナール湾とポーク海峡が隔てる。ヒンドゥー教の神話ではインドとはラマと呼ばれる橋で結ばれていた。アダム橋と呼ばれる所々海面に顔を出す石灰岩礁が連なり、その昔完全な天然の陸橋であったが、1480年(文明12年)の嵐で壊れたとのことである。海峡は狭く、インドからスリランカ海岸を望めると言う。
スリランカの事を知らない人も多く、どこにある国ですかと問われることもけっこうある。
友人の紹介で知り合った「アントン・ウィッキー」さんがこの度の式典に参加することになった。
※司会者、通訳が4ヶ国語を通訳する。写真が不鮮明だが、
一番右側がアントン・ウィッキーさんである。
ご存知の方も多いと思うがアントン・ウィッキーさんを少々紹介する。1961年(昭和36年)に文部省の国費留学生として来日する。東京大学農学部大学院で海洋生物学を学び、1969年(昭和44年)に博士号を取得。1979年(昭和54年)より日本テレビ「ズームイン!!朝」のコーナー「ウィッキーさんのワンポイント英会話」を担当し、全国的な知名度を得た。肌の色からアフリカ黒人と思われがちだが、この人こそ生粋の「スリランカ人」である。
もう少々経歴を記すと、
奥羽大学教授、日本大学農獣医学部など他の大学などでも教鞭をとっている。
最近は司会業も忙しく、持ち前のワンポイント英語等も組み入れて、巧みに人の心をとらえながら会を進め、日本人の司会には持ち合わせない司会ぶりと言える。今回のこの「スリランカ」の独立記念日も総合司会を担当し、好評だった。
著書も16冊以上もあって、英語教室も担当して日本での多忙な生活を送っている。英語・日本語など6ヶ国語堪能な「スリランカ」出身の有名人である。
スリジャヤワルダナプラ大学
スニル・アーリヤラトゥナ名誉教授によるこの記念式典で、「スリランカ独立へ向けての民衆の働き」と言う題名で講演があった。
わかりやすく記してみるので最後まで見てもらいたいが、大英帝国イギリスから独立を勝ち取るまでの苦労の話である。
この文面を見ると、「スリランカ」がどんな国でどんな経過を辿ったのか概略はわかってくる。
紀元前543年から約2300年間、スリランカは王国として独立を保ってきているが、西暦1815年(文化12年)3月2日、ついに大英帝国の植民地になったのである。それまでの間、王国を統治した歴代の王たちは、それまでも様々な外敵の侵入を受けながら、限られた地域を短期間占領されるようなことはあったものの、完全に外国の支配を受けるようになったのは、この1815年からであった。
大英帝国、すなわちイギリスの統治から独立を勝ち取るまで、多くの外交交渉や政治的な努力があったのは言うまでもないが、一般の民衆が再び国の独立を勝ち取るためにどのような働きをしたのかを記したいと思う。
イギリスの統治の中、一般民衆の中に支配に対する反発に先立って芽生えたのは、イギリスの文化、習俗といったものに対する嫌悪感だった。イギリス人の話す言語、食習慣、服装、ふるまい、そういったものが、スリランカに住む多数派のシンハラ人、少数派のタミル人、どちらからも不快に思えたのである。この二つの民族は太古の昔より、それぞれ独自の文化を保ってきていた。それゆえ、イギリスの文化は、二つの民族のどちらからも「下品」なものに見え、受け入れられなかった。それに対する反発を基として、彼等は新聞を発行し、詩を書き、戯曲まで書いた。
イギリス人たちはスリランカの森林を開拓し、コーヒーの栽培を始めます。その次に紅茶の栽培を始めました。
その農園での労働力のため、南インドから数十万人の貧しい労働者たちが、スリランカに移住させられて来た。そして、移住させられた労働者はもちろん、スリランカに元からいた労働者たちも、過酷な労働を強いられたのである。そのようなイギリス人の冷酷な支配に抵抗し、対抗するために、1919年(大正8年)を境に多くの団体や組合が設立された。
ランカー協会、ランカー人民協会、ランカー労働者組合などが挙げられる。これら一般民衆の活動が着実に大きな力となったことは、イギリスの支配に対抗して、シンハラ人、タミル人、ムスリム人が一丸になるという結果をもたらした。あるタミル人指導者がこのような言葉を遺している。「イギリスに反抗して、それぞれ別々に戦うということは、その民族だけでなく、国自体の破滅につながる道だ」と。
過去、スリランカではシンハラ人とタミル人との間で大きな戦争がありました。この二つの民族紛争の原因には多くの要因があるが、そのうちの一つが言語の問題を挙げることができる。タミル人もシンハラ語を知りません。両者には言語による意思疎通の機会がなかったのです。実は、1924年(大正13年)スリランカの独立闘争に向けて、ジャフナの若いタミル人たちによって設立された「学生会議」では、すでに将来このような事態になることを危惧していたという記録がある。彼らは当時の政府に対して「すべての公立学校でシンハラ人の生徒にはタミル語を、タミル人の生徒にはシンハラ語を、それぞれ全学年で必修科目とすべきである」という趣旨の提言を当時の政府に働きかけている。
シンハラ人、タミル人の両民族の独立闘争の信念を徐々に加速させ、多大な影響を与えたのは、マハトマ・ガンディーのインド独立運動であった。ガンディーはスリランカでも英雄であった。多くの民衆が、ガンディーを手本とすべきであると国の独立を目指して詩を発表した。同様に、インド独立運動を支持した詩人ラビンドラナート・タゴールの諸作品や、南インドでタミル語による詩を発表していたバーラティーやバーラティーダーサンらの作品がスリランカの独立運動に多大な影響を与えたと言う。
シンハラ人たちの抑圧された精神状態を払拭するために「言語協会」も設立された。偉大な学者であるクマーラトゥンガ・ムニダーサによって1941年(昭和16年)に設立された「ヘラ・ハウラ(シンハラ語協会)もその一つである。英語こそ最高の言語であるとされていた時代にあって、シンハラ語の素晴らしさを説いたクマーラトゥンガには、自らに言語に誇りと愛着を持つことによって、民衆の独立への機運を高めたいという意図があった。
さらにはシンハラ語を使って、国の独立を促す多くの詩を発表した外国人がいたことは特筆すべき点である。仏教僧でもあったその詩人の名はS・マヒンダ師という。彼はシッキム王国(現:インド・シッキム州)という、当時、中央アジアで最も小さい国で生まれ、幼少期、スリランカに移り住んだ。マヒンダ師はスリランカでシンハラ語、パーリ語、サンスクリット語などのインド諸語を学び、後に多くの詩を発表した。マヒンダ師の詩の主題は「ニダハサ(シンハラ語で『自由』『独立』の意味)」である。その他多くのシンハラ人の詩人たちが「ニダハサ」を主題に詩を発表したが、外国人である、S・マヒンダ師ほど、力強く、怒りに満ちた詩によって民衆に訴えかけた詩人は他に見ることはできない。
シンハラ人、タミル人、貴族や富裕層に属する者たちは、イギリス人と親しく交流を持つようになったが、一般の民衆からは雲の上の世界で、その距離が縮まることはなかった。それゆえ、殆どの者にとってどんなにイギリス人に対して反抗する思いがあっても、それを心の底からまっすぐに表することは、何ら良い方法がなかった。
彼らは「握った相手の手を切ることができないので、その手にキスをする者」(シンハラ語のことわざ)のように作品の中ではイギリスに媚びへつらい、王室を称える詩を作っていたのであるが、機会があればそこにイギリス文化への厳しい批判や非難の言葉、風刺の語句を入れることを忘れなかった。
スリランカの新聞や雑誌に「ラクミニ・パハナ」「スワ・ラージャヤ」「タルノーダヤ」などがあるが、大英帝国の支配に反抗する思想が一般大衆に広まることに大きな役割を果たしたと言われる。
1948年(昭和23年)2月4日、スリランカが独立を勝ち取った時、多くの詩人がその喜びを詩に残している。
以上が、スニル・アーリヤラトゥナ名誉教授のスリランカについての話の内容だが、後半に新聞や雑誌などマスコミの紙面や詩人達の詩の訴えにより、反抗する思想が一般大衆を動かして、独立を勝ち取ったとあるが、最後は暴力ではない所にすばらしい価値があるのではと考える。
『日本史年表』を見ると、1948年(昭和23年)「2月4日、セイロン、英連邦内の自治領として独立」と書かれていた。
来日されている多くの「スリランカ」の人々、異国日本の風習に溶け込み、日本との親日に努力されている皆様に濃厚なエールを送りたい。
参考資料
スリランカのパンフレット
『日本史年表』岩波書店
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