「加藤清正公」等が所有していたと言うこの地を大名「井伊家」(井伊大老となった)「加藤家」等が譲り受け下屋敷として使用していた。明治になって宮内省が買い上げたこの辺り一帯は南豊島御料地(皇室の所有地)といって、現在の御苑一帯を除いては畑もあったが、荒れ地のような景観が続いていたと言う。
1912年(明治45年)7月30日に明治天皇が1914年(大正3年)4月11日に昭憲皇太后が崩御された。
まもなく全国から「御聖徳をお偲びする」声が上がり、当時の帝国議会や経済界を動かして、明治天皇を祀る神社創建の機運が生まれる。
そこで政府は翌年、「神社奉祀調査会」を組織し、候補地の選定に取り掛かった。富士山や筑波山、奥多摩なども含め、全国各地で40近くの地名が挙げられたが、明治天皇が東京に緑が深かったことを念頭に、東京府内の陸軍戸山学校、白金火薬庫跡、青山練兵場跡(神宮外苑)、代々木御料地の4カ所に絞られた。
今この代々木御料地こそが、現在の明治神宮の場所である。
1906年(明治39年)に明治天皇が詠まれた和歌一御製が当時の風情を伝えている。
うつせみの代々木の里はしづかにて
都のほかのここちこそすれ
「代々木の里」とは、代々木御苑のことで、明治19年に行幸し、この趣がお気に召された明治天皇は、皇后様のために散策場として整備、花菖蒲を植えさせられた。こんなこともあって4カ所の中から、代々木の地を御祭神ゆかりの地として、また「神域たるに適し」として明治神宮鎮座の地に選定されることになったようだ。
しかし、御苑こそ湧泉や武蔵野の林があったものの、その他は草地が広がっている荒地であったと言う。
1915年(大正4年)「永遠の森」を目指して壮大な造営工事が始まったのである。
広さ約70ヘクタールの中に全国から植樹する木を奉納したいと献木が集まり、北は樺太(サハリン)から、南は台湾まで、日本だけではなく満州(中国東北部)朝鮮からも届き、全部で約10万本の木が奉納され、延べ11万人に及ぶ青年団の勤労奉仕が植林することにより、代々木の杜、神宮の森が誕生したのである。
当時その種類は在来種等を含め365種であったが、東京の気候にそぐわない種類もあって現在では234種類に減少し、かなり大木になっているが本数も約36,000本と当時よりかなり減っているらしい。
今や、東京ドーム15個分の杜は、まるで自然林のように大きく豊かに成長し、2013年(平成25年)の「鎮座百年記念明治神宮境内総合調査」では、日本新発見の昆虫(ジングウウスマルヒメバチと命名)が報告されたほか、数多くの絶滅危惧種や、都会には珍しい生物がいることが報告されている。
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※南参道入口の鳥居、木造。JR原宿駅から一番近い入口である。 |
※明治神宮本殿正面。夕方に写す。 |
創建当初、明治神宮に何を植えたら立派に育つか、また100年後自然の状態になっていくのか、当時の学者たちが考えた。そして椎・樫などの照葉樹を植えることに決定した。
理由は大正時代、すでに東京では公害が進んでいて、都内の大木・老木が次々と枯れていったので、100年先を見越して神宮には照葉樹(常緑広葉樹)が一番適していると判断したようである。
平成27年12月、明治神宮の森を散策し、探秋の森を堪能して来たのだが、東京のドまん中にこれほどの人工林が、自然林になっている所はないと思うほどだった。森の中はいっさい手入れはしない。折れた木、倒れた木は自然のまま、歩道に落ちた葉や枝はすべて森に返す。係員に許可を得て100m程森の中に立入ったが自然の落葉で靴がしずみかくれる程だった。高木の木、中木の木、低木の木と自然に木々は上手く協力しあい強風や多雨の時、木々も助け合っていると管理責任者はこの森の自然を強調して話してくれた。
95年過ぎて自然林になったとも言えるこの鎮守の森も動植物も多く、以前はタヌキ等も住んでいたと言うが今はいないらしい。又、鳥は多種で、すずめ、やまがら、ヒヨドリ、ハト、カラス、渡り鳥等がかなりいるようだ。特にカラスは多く8,000〜10,000羽位いると言う。午前中はこの鎮守の森も様々な鳥のさえずりで癒されるが、午後遅くなると都内に出張中の「カラス」が塒に帰って来るため、3時頃を過ぎると大変やかましく、一変する。きっと朝、夜明けとともにゴミをあさり、食を求めて出て行き、夕方寝場所に帰って来る。この鎮守の森はカラスの良いホテルなのかも知れない。
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※南参道入口の鳥居の横の交番。この大木は100年以上たったけやきの木。。 |
※正月前の準備中の樽。全国の酒蔵から送られて来た。 |
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※これも全国から送られて来た。ワイン樽で10年前頃から、置かれているようだ。 |
※普通参拝客は通れない道の両側には人工林が生い繁っている。95年過ぎると自然林に近くなるらしい。 |
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※神宮の森、人工林もかなり藪となり中には入ることが出来ない。落葉が重なり厚みが20cmぐらいはあると思われる。
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1915(大正4年)4月、日比谷公園設計などされた林学博士の本多静六氏、造園家の本郷高徳氏、又、日本の造園学の祖と言われた上原敬二氏など錚々たる顔ぶれを集め、「明治神宮造営局」が発足したと言う。
中国古来の意味で「杜」は山野に自生する落葉果樹を指すが、日本では神社の「鎮守の杜」や「ご神木」を意味し、更には広く人の手によって造成された森を指したりもした。
古代の神社には社殿のような建物はなかったと聞くが、動物や植物を神霊としたり、森そのものを神社と考えた時代もあったようだ。
「神社の森は永遠に続くものでなければならない。それには自然林に近い状態をつくり上げることだ」これがこの神宮の基本計画の骨子だったと言われる。
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※神宮の森、人工林もかなり藪となり中には入ることが出来ない。落葉が重なり厚みが20cmぐらいはあると思われる。 |
※1915年(大正4年)、神宮の森が建設を始める頃の写真で、一部松林があったと言う当時の松林の風景。 |
この計画の中心を担った、本多氏、本郷氏、上原氏の3人が主木として選んだのは、カシ、シイ、クスノキ等の常緑広葉樹だった。もともとこの地方に存在していたのが常緑広葉樹であり、各種の広葉樹木の混合林を再現することが出来れば、人手を加えなくても天然更新する「永遠の森」をつくることが出来ると考えたからと言うのだ。
ところが、この構想に当時の内閣総理大臣、大隅重信が異を唱えた。
「明治神宮の森も、伊勢神宮や日光東照宮のような荘厳な杉林にすべきである。明治天皇を祀る杜を雑木の藪にするつもりか〜」と大隈首相は言ったと伝えられる。
ところが先人の尊い知恵により、現在の常緑広葉樹の生い繁るすばらしい「鎮守の森」が95年を生き続け、2020年東京でオリンピックを迎える年に100年目となるのである。
※この写真も大正4年当時の畑や荒地でここに献木が
植えられた。
そして95年が過ぎたのが今の森である。
この明治神宮、神宮の森のパンフレットを見ると、明治神宮の杜の総面積は約70万uで東京ドーム約15個分あり、全国各地より、365種、約10万本が献木され、約50種の野鳥がいるとか、加藤清正公が掘ったと伝えられる都内有数の名湧水がある。
また、明治天皇のお指図で皇后様のために植えられた花菖蒲があって、現在150種、1,500株の菖蒲がその美しさを競い合う(6月中、下旬が見頃)等、日本一の大鳥居が桧造の明神鳥居としては日本一、鳥居の高さ12m、柱間9.1m、柱の径1.2m、笠木の長さ17m等々新発見がたくさん記されている。
明治天皇と昭憲皇太后の御製、御歌を一部紹介したい。
※あらたまの年のをはりもちかづきぬ
暑し寒しといひくらすまに
(暑い寒いといって暮らしているうちに、年の終わりも近づいてきました)
※花ちりて若葉すずしとおもふまに
もみぢみだれて木枯ぞふく
(春の花が散りはてて、夏の若葉の緑がすずしいと思っている間に、たちまち秋の紅葉がみだれ散り、木枯らしの寒ざむと吹く冬になってしまいました)
この神宮の森が生まれた経緯など列記したが、まとめて記して見ると、
この「神宮の杜」は人工林であるが、明治天皇が崩御された後、全国から「御聖徳をお偲びする」声があがり、国で神宮を建設することになった。日本造園の権威本多、本郷、上原3氏が大隅首相の反対を押し切り、常緑広葉樹を植えることとなり、全国から10万本の献木も受け、100年〜150年を目指して造園した。
そして95年たった今、立派な自然林に成長した。2020年、東京オリンピック開催の年に100年を迎えることになった。
明治神宮宮司・中島精太郎氏は、先人が目指した「永遠の杜」づくりの理想を受け継ぎ、今を生きる私共の叡智と真心を集めて、いっそうの発展と神威の昂揚に尽くすことが務めかと考えている、と語っている。
この森を後世に自然林として「鎮守の森」として永遠に守り続け、明治天皇・皇后様に感謝の心で、明治神宮と「鎮守の森」を守って継続して行きたいものである。
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