『歴史探訪』(122)
江戸川木材工業株式会社
取締役 清水 太郎
第50回東海道ネットワークの会21が「岡崎宿に徳川家康の生涯を訪ねる」というテーマで開催されました。2月20日、春とは云え、小雨降り頻る三河安城駅には、会員18名に加え、手島会長が静岡工業高校で教鞭をとっておられた時の教え子とその家族19名が参加され、大型バスに乗って賑やかな旅立ちとなりました。今回は道順に沿って、松平、徳川氏に関わる史跡を探訪します。
@六所神社 斉明天皇の勅願で、奥州塩釜の六所大明神を勧請し創立されました。松平家初代親氏がこの地に移し、国家安全、子孫繁盛を祈願し、天文11年家康誕生時に産土神社と定められました。三代家光も神殿の改築を行い、寛永13年(1634)権現造りにより再建、日光東照宮を彷彿させる見事な彩色が施され重文に指定。現在本殿は修理中ですが覆われたシートには完成時の姿が色も鮮やかに描かれ、完成後いつか拝みに来たいものです。
A八丁味噌の里 岡崎城より西方八丁(870m)の位置に、300年以上の伝統を誇る八丁味噌の老舗があります。味噌は徳川軍団の携行食でありました。食文化史研究家永山久夫氏は、愛知県から、信長、秀吉、家康という、日本を代表する戦国武将が輩出された要因の一つに、八丁味噌摂取による活力があった、と看破しておられます。蔵の中には大きな杉製樽が並んでおり、矢作大豆と呼ばれる大豆と吉良の塩、矢作川の伏流水と麹で蒸し、二年経って、醸成されます。一樽で30万食の味噌汁ができます。蓋の上には37の石が載っています。当工場には大きな樽が50個以上あります。
昼食は大正庵釜春で味噌煮込み膳を頂き
B岡崎城へ「5万石でも岡崎様は城の下まで船が着く」 30年以上前、知人の紹介で、小唄の師匠の門を叩き、数年後、件の唄を修得しました。岡崎城は家康誕生の城で、石高は5万石でも家格の高い譜代大名が城主を務める習わしになっておりました。
「明治6年江戸幕府の瓦解と共に3階建の天守閣は取り壊されましたが、昭和34年復元されましたので、恐らく鉄筋コンクリート造りで、歴史的価値はない」と杉井幹事の説明がありました。むしろ空堀の遺構とか、舟運を利用して長野から材木を運んだり、食糧を運んで、低コストで物流を実現し、藩や領民の生活に寄与する仕組みは学ぶべき点であります。大手門は10億以上かけて最近建てられました。大道芸人風の人が記念写真を撮っており、三段に並べた台に、陣羽織を着せて1枚1,000円で写真を売っていますが、1,000円は高いので葵の紋入の印籠と扇子をサービスしても中々売れません。天守閣の前に「人の一生は…」で始まる家康の遺訓碑があります。
芭蕉の句碑もあり「木のもとに汁も膾も左久良哉」 まさか城閣の中ではないでしょうが、江戸からはるばるやって来て風流人達と句会を開き、その時詠んだ俳句でしょうか。
それでは、十返舎一九の弥次喜多は寄ったのであろうかと、現代版東海道中膝栗毛を繙いてみますと、「岡崎は東海道でも名だたる繁盛の地で、ことに両側の茶屋は賑やかできれいに見える」と云う設定になっております。
ここで2人は鮎のなますを肴に諸白という上等の酒を飲んだようです。岡崎の賑いを想像することができます。
太田南畝の『改元紀行』にも「まこと岡崎の地は本多中務大輔の城にして其の賑い、駿府につぐべし」とあります。
C伊賀八幡宮 後土御門天皇の文明2年(1470)、松平4代親忠が三重の伊賀からこちらに勧請したことを創始とします。松平家、徳川家の氏神として代々武運長久、子孫繁栄を祈願してきました。家康が三河守に任じられた永禄9年(1566)に社殿を造営し、寛永13年(1636)、三代家光が東照大権現を祀り、岡崎城主本多忠利を奉行として造営されたのが現在の社殿であります。
D大樹寺(家康発心の寺)文明7年(1475)松平4代親忠(家康から遡る5代前)が創建。
家康が19才の時、桶狭間で今川義元が殺され身の危険を感じた家康はこの寺にかくまわれました。その時住職から、乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目「厭離穢土 欣求浄土」と諭されたと云われています。本堂内に歴代将軍の等身大の位牌が納められています。拝見しますと、五代綱吉の身長は124cmしかありません。犬公方と云われ生類憐みの令という悪法や、吉良邸に討ち入った赤穂浪士に切腹を命じ権政を恣にしたあの綱吉が4尺の身長であったとは信じ難い。
廟所には松平9代と歴代将軍の墓が移祀され並んでおります。
E滝山寺 今日最後の目玉は、雨の中市街からかなり奥に入った処にある岡崎最古の寺と東照宮を訪ねます。道が狭く大型バスは入れず、住職氏に入口で待機して頂き、バスは45分後に迎えに来る手筈にしました。
京都嵯峨野を彷彿させる地に建つ鎌倉時代の寺。天武天皇の御代、薬師如来を祀り、朱鳥元年(689)創立。平安時代には荒廃しておりましたが、源頼朝によって大伽藍が建立され、貞応元年(1221)足利尊氏によって現本堂が建立されました。20体以上ある仏像は皆優しいお顔で我々を迎えて下さいました。
門内の仁王像は運慶の作。
F滝山東照宮 寺と同じ敷地に建ち、日光、久能山と共に三大東照宮の一。家康も再三訪れ200石を寄進。江戸期6回にわたって幕府により修理。鳥居、拝殿、中門、本殿は重文。境内は諸大名から寄進された石灯籠が50基、家光の従兄保科正之寄進による大きな灯籠もありました。
以上、齢80の杉井名幹事様の献身的な準備と緻密な計画により、かくも素晴らしい名蹟を効率よく見せて頂き、大変濃密な探訪でありました。肌寒い中、滞りなく行程を消化し、急坂も頑張って登り、無事巡ることが出来ましたのは、全員の絆と、老いても弛まぬ熱い探究心の賜でありましょう。冷えた身体とは裏腹に気持ちはほのぼのと温まって参りました。
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