東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(123)

江戸川木材工業株式会社
取締役 清水 太郎

 先日、当社の新入社員を外部研修で新木場内を4ヶ所案内致しました。訪問先は、木材・合板博物館、北三(株)、東京銘木協同組合、東京木材市場(株)であります。
 博物館では元東京大学名誉教授の岡野館長様が自ら分かり易く、親切に「樹木は地球にとって有難い存在です。生物が存在する為に必要な酸素を放出し、CO2を吸収して地球を浄化します。……」他の3ヶ所も責任者、役員様が、珍しい展示品の説明や仕事の仕組みについて話して下さいました。桜が咲き始めた新木場は歓迎ムードいっぱいで、新人達は刺激を受けたようです。
 私は北三(株)の展示ルーム入口に貼ってある写真に刺激を受けました。写真は平成26年11月から運行している「南海・真田赤備え列車」で外装に真田家の六文銭をあしらい、赤備えに因んで赤く染めて内装も豪華に飾り、難波駅(大阪市)と高野山の麓・極楽橋駅(高野町)間約50kmを走り好評を博しておりました。装飾を北三(株)さんが携ったことは云うまでもありませんが、私はこの写真を見て、NHK大河ドラマ「真田丸」で第一のクライマックス、1585年第一次上田合戦があった上田城と、赤備え列車が走っている九度山を訪ねてみようと決心致しました。

 今回は前々回に引き続き、別の角度から真田氏の活躍について歴史探訪します。
 何故真田三代の人気が高いか。それは真田氏と関わった武将たちは当代一流の人物ばかりであり、ある企画で50人の僧侶がつけた戦国武将のランキング50でNO.1〜NO.20までに入っており、綺羅星の如く輝やいて登場し、彼等が織りなす戦国絵巻が現代に到るまで多くの人々に感動を与えているからではないでしょうか。徳川家康、秀忠、武田信玄、勝頼、上杉謙信、景勝、織田信長、豊臣秀吉、秀頼、石田三成、直江兼続、明智光秀、北条氏直、大谷吉継たちであります。第一次上田合戦では、真田勢の死者140名に対し、徳川軍は1,000名以上の損害となり、真田氏の勇名は全国に轟きました。
 次のクライマックスは1600年関ヶ原の戦でありましょう。昌幸、信繁父子は徳川秀忠軍を撃退し(第二次上田合戦)秀忠は関ヶ原の戦に遅参しました。一説によれば万が一関ヶ原で東軍が敗れることも考慮し、その時は秀忠軍を温存し捲土重来を期すことになっておりました。家康は激怒し、昌幸、信繁父子を死罪にせよと主張しましたが、東軍に与した信幸のとりなしで九度山に配流されました。
 九度山は高野山の麓にありました。高野山は保元・平治の乱以来、敗残者たちが第二の人生を送った地であります。時に昌幸54才、信繁34才でありました。
 西軍の将石田三成、安国寺らは処刑され、宇喜田秀家は遠島送りになりましたが、何故昌幸、信繁父子は死罪を免れたばかりでなく九度山と云う大阪と至近の位置に配流されたか。家康の遠謀深慮があったのかも知れません。1603年江戸幕府が開かれ徳川磐石の体制になったかに見えましたが、家康にして見れば一抹の不安があったに違いない。それは大坂城の淀君秀頼母子の存在であります。
 そこで家康は一計を案じ、豊臣家に散財させる為に方広寺を大改修し、豊臣秀吉の葬儀を盛大に行うよう勧めます。ここで事件が起き、
 鐘楼の鐘に刻んだ8文字「国家安康君臣豊楽」は家康を分断し豊臣の繁栄を願うものだと云い掛りをつけます。これは家康の政治顧問天海大僧正の入れ知恵と云われておりますが、豊臣方に釈明を要求します。無理難題を押しつけ、淀君を人質にせよと迫りますがこれが因で大坂冬の陣が起ります。
 大坂城に浪人等10万人以上が集まり、秀頼は黄金200枚と銀30貫と云う大枚の矢銭を渡し信繁を呼びます。
 雌伏、14年、この時を期して昌幸から策を授かっていたことでしょうが、これを家康側は予測していたのではないでしょうか。多くの不平分子が結集していた処を計画的に戦いを仕掛けさせ、これを一網打尽に殲滅する計画を持っていたのではないでしょうか。
 しかし、最後にあと一歩の処まで追い詰められるとは到底予測できなかったに違いない。
 家康の辛勝に終り、これで安心と翌年(1617)家康は大往生を遂げ、大権現となり、東照宮に祀られました。


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