東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(125)

江戸川木材工業株式会社
取締役 清水 太郎

 「東海道ネットワークの会21」第51回例会が5月28日開催されました。今回のテーマは「江戸城登城コースと幕末会席を楽しむ」です。
 実は私、6月30日を以って約50年勤めた当社を退任致します。
従って今回が最後の投稿となります。
 今回は、「東海道ネットワークの会21」14年間 50回の足跡の一部を回想しながら歴史探訪します。
 第6回、平成15年6月7日「赤坂、御油散策」広重が浮世絵で描いた 蘇鉄の木と遊女で有名な旅籠 大橋屋が未だ現存しており、留め女の呼び声が聞こえて来るような気が致しました。
 第12回、平成17年6月4日「新茶の里大井川」懐かしい蓬莱橋に再会しました。明治になって戻って来た静岡出身の元旗本、元御家人達が帰農し、お茶の栽培に精を出しますが、彼等の職住近接の為に蓬莱橋が架けられました。日本で最も長い木造の橋であります。
 第18回、平成18年11月18日「高天神城、横須賀城、掛川城」高天神城では、徳川、武田間で熾烈な戦がありました。1572年、三方ケ原の戦では武田軍は徳川軍に大勝、家康は命辛々浜松城に逃げ込みました。ところが、1573年、信玄は上洛途上、陣中で病没しますと、勢力は衰え、高天神城で敗れますと、唯一、海に接していた領地を失い、衰退して行きます。
 当時NHK大河ドラマ『功名が辻』放映で主人公山内一豊は妻千代に支えられ、居城掛川城が脚光を浴び賑って居りました。
 掛川城が木造で再建された陰には、一豊の妻千代の内助の功に勝るとも劣らない一女性の尽力がありました。掛川市長が件の女性と対談していた時、「市長さんは何が欲しいですか」と訊かれ、市長は軽い気持ちで「私は城が欲しいです」と答えますと、「それなら私が出しましょう」と云ってポンと10億円を出しました。それを元手に市民からも寄付を集め、立派な木造のお城が完成しました。
 第22回、平成19年11月17日「吉原宿を歩く」富士川の西岸に源平合戦時の源氏方の陣跡の石碑がありました。西から来た平氏軍に対し、いくら大勝したとは云え背水の陣はあり得ないと思っておりましたが、当時川の東岸にあった源氏方の陣が河川の流路が変わって西岸になったことが判明しました。当時のNHK大河ドラマの主人公山本勘助ゆかりの墓が岳南鉄道の沿線で見付かり、又、月面探査衛星「かぐや号」の活躍で、『竹取物語』の舞台となったとの伝説のある竹林も脚光を浴び、岳南鉄道は、「勘助号」、「かぐや姫号」のプレートを付けて走り、賑っておりました。
 第27回、平成21年3月28日「谷根千を歩く」ろんどの会でも平成15年11月8日 谷根千を歩きすっかりお馴染みでしたが、神田川ネットワーク代表 大松騏一氏の案内で新知識を得ました。築城の名人藤堂和泉守の屋敷があった処を出身地、忍者の里に因んで忍ヶ丘と命名されました。後に比叡山を模して上野に寛永寺が建立され、琵琶湖を模して池が掘られました。忍ケ池と命名される筈でしたがその時は平和な世となり忍者は不要となって不忍池となりました。
 第36回、平成23年5月21日「江戸の船旅」日本橋船着場から乗船、日本橋川を遡り、神田橋から隅田川へ、小名木川に入り、2ケ所の閘門を通りパナマ運河通行のように水位を調節しながら通行は圧巻でありました。1964年、東京オリンピックに間に合わせる為、首都高速のかなりの部分を日本橋川の中に杭を打ち込んで高架にしました。今では50年以上経ち、重量車が走って老朽化し、今後改修するときは、ルートを変え、日本橋に青空を取り戻してほしいと思いました。
 第41回、平成25年3月21、22日「東海道を宮宿から佐屋路を歩く」熱田神宮からスタートし、七里の渡しから船便で28kmの航路がありました。しかし海路は天候に左右されやすい上、危険性も高く、陸路のバイパスとして佐屋路が開かれました。岩塚、万場、神守、佐屋の四宿を経て、佐屋川、木曽川、川船で下ると、佐屋の渡から桑名港まで三里あります。
 その日は長島温泉に一泊。翌日は桑名城跡、春日神社を巡り昼食後、山林王・諸戸清六の私邸跡、コンドル設計による六華苑を見学しました。
 第44回、平成26年3月10、11日「渥美、知多両半島の春」豊橋駅からバスで渡辺崋山の史跡や名刹数ヶ所を巡り、伊良湖岬から雄大な遠州灘を眺めました。島崎藤村の有名な「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ、…」の歌碑がありました。翌日はホテルから大きな朝日を拝み出発、バスごと船に乗り知多半島に上陸。陶器の里・常滑でレンガ積の大きな窯が林立して聳え立つ中を散策。酒造りの里・半田ではミツカン酢の工場、老舗の醸造元では銘酒を試飲しました。
 第46回、平成26年10月16、17日「秋葉神社と浜名の古刹を巡る」浜松駅よりバスで一路秋葉山へ、桧の美林が生い茂る林道を登って行きます。秋葉神社は火伏の神と云われ、多くの信者がやって来て、家内安全、火の用心を祈願しお札をもらって帰ると御利益があるので有名です。全員で祈祷し、別室で精進料理を頂きます。深山幽谷の中で大変清々しい気分になりました。明治になってすぐ下にあったお寺は廃仏毀釈により排斥されたようです。「日本人として、神仏混淆に折り合いをつけてもよい時ではないでしょうか」と秋庭会長は仰っておりました。
 第49回、平成27年9月26日「駿府宿に家康の事蹟を探る」
 第50回、平成28年2月20日「岡崎宿に家康の事蹟を探る」

 以上、14年間、50回に渡る例会を駆け足で探訪して参りましたが、第51回は愈々江戸時代の集大成、皇居東御苑の散策です。

 八重洲北口に集合し、割烹嶋村で席を借り、総会後「幕末会席」に舌鼓を打ちます。
 当店は嘉永3年(1850)創業、160年以上続く老舗割烹です。江戸城の御用も務めた名店、大江戸料理店番付の勧進元としての格式を誇り、明治になってからも伊藤博文を初めとする元勲や獅子文六などの文士が常連でありました。
 お品書きの6番目にきんぷら(てんぷら)とあり、小さな海老天が3疋出ました。これは商人が役人を接待する時、器に料理をのせた紙の下に小判を忍ばせたこともあった為と云われておりますが真相は定かではありません。
 昼食後、店舗前で記念写真を撮り出発します。八重洲口で新しく発見された北町奉行所の遺構を見学し大手門に向います。手前に御三家を除く大名が下馬するための広場(今のパレスホテル)がありました。ここは大老酒井忠清の屋敷前でもあり「下馬将軍」の呼称も生まれました。登城中の大名のお供衆らはここに敷物を敷き待機していたため、「下馬評」なる言葉も生まれ、情報交換の場となりました。

 いよいよ大手門に入ります。枡形構造になっており、三方から鉄砲を構えた兵士が穴から入場者をチェックしています。
 右手に三の丸尚蔵館があり、美術品等が納められています。平成28年4月22日−5月24日 上野の東京都美術館で「若冲展」が開催されましたが、うち31点の名作が尚蔵館から運ばれ展示されました。(『組合月報』6月号 青木行雄様 随筆より)大手休憩所を経て、同心番所、百人番所と厳しいチェックが続きます。甲賀、根来、伊賀衆など4班に分かれ、与力20名、同心百余名が交代で昼夜にわたり警護して居りました。
 中之門跡は大きな石積だけが残っており、大番所、中雀門跡の前を通ると急な登り坂となり前方に富士見櫓があります。現存する三櫓の一つでブルーの瓦屋根は美しくどこから見ても同じ形に見える為「八方正面の櫓」と呼ばれており、これも検問所でありました。

 江戸城の最盛期にあった大奥は今は無く、芝生の広場となっており、松の廊下のあった本丸の建物も今はありません。1657年明暦の大火で焼け落ちた五層の天守閣は石積だけとなり棟高51mありましたので、当時としては超高層並みで360度の視界が望まれました。
 天守台から見下ろす桃華楽堂は美しい芸術の外装で、雅楽演奏、古式懐かしい舞も催されます。
 現在内堀の内側は約180ha(55万坪)あり、そのうち散策可能な地域は約40%、72ha(32万坪)です。
 国立歴史民俗博物館所蔵の「江戸図屏風」のコピーを見ますと36ホールのゴルフ場並みの敷地に江戸幕府の機能が納まり、16代、265年間、日本全体を統括していたのですから、最後に大政奉還し たとは云え、当時の江戸幕府の隆盛は世界に類を見ない程であったのではないでしょうか。

 汐見坂を下り、二の丸庭園で今盛りの菖蒲や躑躅を愛で、全国都道府県の樹木を眺め、休憩を含めて約3時間の有意義な散策でありました。
 ところで、巷で云われている「江戸城の天守閣を再現する」という動きがあるようですが、是非実現して頂き度いものです。

 最後に、125回の長期に渡り拙文を御掲載賜り厚く御礼申し上げます。誠に有難うございました。


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