「歴史探訪」PartU−A
江戸川木材工業株式会社
取締役 清水 太郎
約50年勤めた会社を退任して2ヶ月が過ぎました。7月2日、創業70周年を記念して祝賀会が、250人の社員、株主、顧客先様の出席により開かれました。
私は毎朝近くの公園に6時半から始まるラジオ体操に出掛け、一念発起して始めたピアノ教室に通って、練習も極力毎日励行する等生活のリズムを整えるよう心掛けております。
7月は大相撲のテレビ観戦、参議院選挙、都知事選挙、8月はリオ五輪で日本選手の活躍に感動し、元気をもらいました。
7月15、16、17の海の日を絡めた連休に、長野県在住の長男を誘って猛暑の東京を脱出し、ログハウスに泊まり、高原の涼気を胸いっぱい吸い、癒されて参りました。近くの上田城址公園は真田丸人気で賑っておりました。今回は、秀吉没後から関ヶ原の戦に至るまで、歴史の大きな節目について探訪します。
私が平成7年に歩いた中山道では猛暑の中松井田宿を過ぎますと、妙義山の絶景が望まれ、難所碓氷峠を登ります。「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と謳われておりました。中山道三大難所の1つで、あとの2つは今では難なく越せますが、新幹線が開通するまでは横川でアプト式の機関車が急坂を歯車の力で登ります。機関車をつけ替える間を利用して、名物峠の釜飯が飛ぶように売れます。新幹線開通でそのような情緒はなくなりましたが、歩行者は今も昔も峠を汗をかきかき登らねばなりません。
中山道は、軽井沢、沓掛(中軽井沢)追分と続きます。追分とは家畜の群を追って道が二股に岐れ、左右に予定通りに分けることから、二股の地点を追分と呼ぶようになりました。左へ行くと小田井、岩村田と中山道ですが、右は北国街道で、小諸、海野、と続き次が上田宿です。上田周辺は至る処に戦跡があります。中山道中で上田駅から拾ったタクシーのドライバー氏が子供のとき、付近の畑で発掘した刀の鍔を学校に持って行ったら先生に褒められた、と仰っていました。
上田城址公園に本丸は残っておりませんが、見張りの兵士が昇って戦況を見る櫓が3ヶ所現存しています。廻りは山に囲まれ、城郭の中に川も流れて居り、まわりの地形を活かした城を築き、2回に亘る攻防で真田氏の武名が全国に轟いた経緯は中々想像することは出来ませんが、隣接する真田丸大河ドラマ館の展示や映像で、真田一族の活躍が再現され大入満員の賑いであります。
今、大河ドラマでは、秀吉没後、朝鮮半島に出兵していた兵士が続々と帰還して参ります。家康はそれまでに禁止されていた有力大名と姻籍関係を結び、これを咎める石田三成を佐和山に蟄居させ、横暴を極めます。国へ帰った上杉景勝に上洛せよと促しますが、直江兼続が景勝に代わって、家康を詰った挑戦状(直江状)を送り、これに激怒した家康は上杉征伐に向かいます。これは三成が兼続と呼応して家康を挟み撃ちにする作戦でありました。三成の挙兵が直ちに知らされ、家康は小山で反転して江戸城に戻り、上杉討伐軍は西へ向かいます。しかし、ここで若し真田昌幸、信幸、信繁父子が動いていれば、天下の趨勢はどうなっていたか分かりません。
先の都知事選挙は、小池氏が時の権力に対抗して名乗りをあげ、誹謗中傷を軽く受け流して大きな風を起し、浮動票を集めて圧勝しました。
真田昌幸も傍観せずに、東西いずれかについて風を起すことは出来なかったものでしょうか。昌幸は関ヶ原の決戦はたった1日で決着がつかずに1年以上長引くと見ていたふしがあります。
関ヶ原の戦は東軍が圧勝し、昌幸、信繁父子は死罪になる処、信幸の取りなしで免がれ九度山に蟄居となりました。昌幸は九度山で死去し、大坂の陣で信繁は秀頼に呼ばれて真田丸を築き、2,000の軍勢で7,000の敵を屠り、東軍の呼びかけで休戦となりました。協議の末大坂城の外堀は埋めることになり、狡猾な家康は勢いに乗じて内堀まで埋めてしまい、大坂城は裸同然となりました。
信繁は翌年、籠城せずに打って出て家康を追い詰め、あと一歩のところで敗れました。
大河ドラマの終幕は如何に展開するか、楽しみであります。
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本丸東虎口の櫓門(復元)と隅櫓 |
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西櫓 縦断面図 |
西櫓 横断面図 |
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南櫓 二重屋根土居葺 |
西櫓 一階内部西面 |
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