「芸道」それは終わりなき、一筋の道、「北島三郎」の歩んで来た一筋の道の表現なのだ。夢を追ってひたすら前進して来た三郎の道、道、道。
平成28年10月6日(木)グランドプリンスホテル新高輪、大宴会場「飛天」の間にて、盛大に祝宴が行われた。前日の5日は北島三郎に関係のある多くの芸能人のオンパレードで、1,000人近くの芸能人が彼を祝福する為の集まりで、特別に安倍総理もかけつけた。そして翌日6日彼を応援するファンの大集合が行われたのである。
会場の入口には、3メートルもある「感謝」の大字が掲げられ、地下に降りる通路には「北島三郎」の等身大の金色レプリカが、通路に12体も並べられている。地下の広間には、何百枚かの写真や歩んで来た映画や、舞台の写真等が所狭しと飾られ、芸道55周年にふさわしい飾付けであった。特に目立ったのが「キタサン」馬のレプリカが人目を引いた。
会場舞台にはとてつもない大きな「感謝」の字が掲げられ、一際目立つ段上であった。2面のスクリーンがあって、前日の芸能人達の集会の様子が映され、安倍総理よりの挨拶も映されていた。芸能界大御所の宴だけにすごい会場の雰囲気であった。
「ラジオから流れてくる歌声に憧れた少年時代。歌手への大望を夢見て渡った津軽海峡。冷たい都会の街で耐えて過ごした流し稼業……。
そして船村先生との大きな出逢い。以来“この道一筋”に歩んで参りました。
お陰様で今年55周年という大きな節目を迎えることが出来ますのも、ひとえに皆様方の御厚情の賜物と心より感謝を申し上げます。
これからも完成のないこの道を、今日より明日へ……歩み続けて参る所存です。
今後とも皆様の常変わらぬ御厚誼の程よろしくお願い申し上げます。
2016年10月吉日 北島三郎
1963年(昭和38年)9月日本コロムビアより、日本クラウンへ専属第1号歌手として創立時移籍した北島三郎への祝辞の言葉
「輝かしい歴史の55年間」
「北島三郎さんは1962年(昭和37年)6月5日デビューをし、その年の12月には『なみだ船』で、第4回日本レコード大賞・新人賞を受賞するという華々しいスタートを切られました。
そして1963年(昭和38年)9月、専属第1号歌手として日本コロムビアより移籍、弊社創立に花を添えてくださいました。
1965年(昭和40年)には『兄弟仁義』『函館の女』『帰ろかな』が、立て続けに大ヒット。日本クラウン創成期をしっかり支えてくださいました。その後、1980年(昭和55年)『風雪ながれ旅』において第1回古賀政男記念音楽大賞、
1986年(昭和61年)『北の漁場』で第28回日本レコード大賞最優秀歌唱賞、1991年(平成3年)『北の大地』で第33回日本レコード大賞と、各音楽賞を受賞されております。
また、国際交流の面でも、アメリカをはじめブラジル、シリア、中国、ソビエト(現ロシア)などで公演され、その数々の功績を称えられ1991年(平成3年)「紺綬褒章」そして、2016年(平成28年)「旭日小綬章」を受章されました。
そんな偉大な北島三郎さんですが、80歳を迎えられた今でも、老若男女のファンの皆様からは“サブちゃん”という愛称で親しまれる一面も持っておられます。それはどんなことがあっても決っして偉ぶらず、義理人情に厚い人柄によるものと思われます。また、昨今では“サブちゃん”と言えば『まつり』。『まつり』と言えば“サブちゃん”を誰しもが思い浮かべる最高のエンターティナーの地位を確立しております。これからも歌謡界の為、健康に留意され人々に魂のある歌を届け続けてください。
私も微力ながらお手伝いさせて頂きたいと思っております。この度は芸道55周年おめでとうございます。
日本クラウン(株)
代表取締役社長 和田康孝
北島三郎こと本名「大野 穰」さんの生い立ちを簡単に記してみたい。
1936年(昭和11年)10月4日本名大野穰は、北海道上磯郡知内村(知内町)に生まれる。父・大野一郎、母・キクエの長男(五男二女)。
半農半漁を生業とする大野家は、戦争の影響と鰊漁の不振により、苦しい生活を送る毎日であったと記されている。穰少年は長男としての責任感から、幼い弟妹の面倒をみて、家業を継ぐつもりで高校への進学は諦めていたが、担任の先生の薦めもあり受験。北海道函館西高等学校に入学、片道1時間半の汽車に揺られ、高校生活を送ることになる。
1953年(昭和28年)函館港で溺れていた小学生を人命救助し表彰されたこともあるようだ。
同年函館で開催された『NHKのど自慢』に出場するも、鐘は2つだったが司会の宮田輝さんから「良い声をしていて上手だった」と褒められた言葉が、穰少年の夢をかきたてたようだ。そして1955年(昭和30年)3月高校卒業後、歌手を志して上京することになる。
そして「歌手募集」の新聞広告を見つけ訪ねた先は、なんと「流し」の事務所であった。馴れないギター片手に「渋谷の大ちゃん」としての生活が始まるのである。
1956年(昭和31年)8月西大久保の神郡家に下宿し、大家の娘である雅と出合ったのである。そして1959年(昭和34年)11月とうとう結婚した。その1年後運命の「船村先生」と出合い、門下生となった。
1961年(昭和36年)10月コロムビア全国歌謡コンクール・全国大会出場が叶ったのである。
そして1962年(昭和37年)念願のデビューが叶い発売された『ブンガチヤ節』(作詞:星野哲郎/採譜:船村 徹)であったが、歌詞の一部が不適切な表現であるという理由で、発売から僅か1週間で放送禁止となった。降りかかる試練にもくじけず、当初デビュー曲としてレッスンしていた『なみだ船』(作詞:星野哲郎/作曲:船村 徹)を2ヵ月後に発売。瞬く間に大ヒットとなり、その年の日本レコード大賞・新人賞にも輝き、事実上のデビュー曲となったのである。
新人賞を獲得してからの勢いは凄かったようである。1963年(昭和38年)7月浅草国際劇場は「東洋一の5,000人劇場」当時言われた。この劇場で、連日立ち見まで出る大盛況のワンマンショーが開催され、北島三郎の名を一気に世に知らしめたのである。
そして、この年日本クラウンに移籍し、専属歌手第1号となった。
さらにこの年の12月、NHK紅白歌合戦に初出場し、『ギター仁義』を歌唱した。白の着物に寿の染め、紋付袴姿で仁義を切っての熱唱は、北島三郎の人気を決定付けるものとなったのである。
1965年(昭和40年)は北島にとって忘れられない年となった。3月に発売した『兄弟仁義』(作詞:星野哲郎/作曲:北原じゅん)、4月の『帰ろかな』(作詞:永六輔/作曲:中村八大)、11月の『函館の女』(作詞:星野哲郎/作曲:島津伸男)の3曲が、ミリオンセラーを達成するという快挙を成し遂げたのである。中でも150万枚の大ヒットとなった『函館の女』は当初、東京を舞台にした歌詞だったものを北島のイメージに合わせ函館に変更した作品であると言う。また『帰ろかな』はNHK「夢であいましょう」の今月の歌として作られた曲であり、潮の匂いがする海の歌でデビューして、任侠シリーズなどの路線を打ち出し活躍する北島三郎にまた新たな色を加えてくれた名曲となったのである。
1968年(昭和43年)より始まった座長公演、憧れの新宿コマ劇場で演じた芝居は『森の石松』であった。その後の舞台でも度々上演され、役者・北島三郎の十八番の演目となったようである。
このように当時、新宿コマの大劇場で1ヶ月座長公演を上演出来るのはスターの証であった。毎回、満員御礼が出る看板公演となった「北島三郎特別公演」は新宿コマ劇場が閉館する2008年まで39回の最多上演回数と最多入場客数を記録したと言う。すごい事だと思う。
数々の受賞の中に、昭和の日本を代表する作曲家である古賀政男を記念した「NHK第1回古賀政男記念音楽大賞」を『風雪ながれ旅』で受賞、北島の師匠である船村徹氏と盟友の星野哲郎氏と共に授賞となった。この2人の作詩家・作曲家とは、すごい縁続きであったのだ。
1978年(昭和53年)放送が開始された人気時代劇「暴れん坊将軍」で、江戸町火消し・め組の辰五郎として登場、二代目頭を山本譲二に引き継ぐ1997年まで出演した。番組のオープニングやエンディング曲として6枚のシングルも発売され人気を博した。私も何枚かのCDを購入し、この時代劇を良く観た。
1986年(昭和61年)に発売された『北の漁場』は、潮の匂いがする北島にぴったりの楽曲であった。その年の第28回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞、以降、北島の定番曲となり座長公演の際には原寸大の漁船セットに乗って豪快に歌うシーンが公演名物となった。後に「明治座」でも何回か公演し、東京東信用金庫が年に1度の行事として開催。私も参加した事が思い出に残っている。
そして、1991年(平成3年)12月31日、第33回日本レコード大賞(歌謡曲・演歌部門)に『北の大地』(作詞:星野哲郎/作曲:船村徹のコンビ)が輝いた。『なみだ船』で新人賞、『北の漁場』で最優秀歌唱賞を獲得している北島にとっては、この受賞により三冠達成という偉業になったのである。この年は、北島にとって歌手生活30周年という節目でもあり、記念イヤーの大晦日に、北島自身の故郷である北海道の大地をモチーフにした歌で、歌手にとって最も大きな勲章を手にしたのであった。
2002年(平成14年)12月23日、思い出深い母校、函館西高等学校の近くに「北島三郎記念館」がオープンした。グッズショップなどの「ショッピングゾーン」、北島の歴史を綴った「ヒストリー・ゾーン」、そして『まつり』を再現した「シアターゾーン」の3フロアーで構成され、北島の魅力を余すところなく満喫できる構成になっており、函館の観光スポットとして人気を博している。
2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災発生、それは日生劇場「芸道50周年記念公演」の最中だった。公演は休演となり、その後たくさんの歌仲間と共に復興支援に協力。(一社)日本音楽事業社協会が主催した「演歌キャラバン隊」にも参加し被災地へ向った。
1963年『ギター仁義』で初出場以来、毎年熱唱してきたNHK紅白歌合戦の舞台であったが2013年(平成25年)の50回出場を最後に自ら幕を引いた。また「北島三郎特別公演」も総上演回数4,578回という大記録を残し終幕した。この時、「誰かが幕を開けたら、誰かが幕を閉じなければならない」と“男の美学”を語り、「終わりは始まり…」と新たなる挑戦も誓ったのである。
そして、2016年(平成28年)5月春の叙勲で旭日小綬章を受章した。
同じく5月の第153回天皇賞に馬主北島の「キタサンブラック号」が優勝。なんと馬までもが北島の今まで歩いて来た人生を祝福したのである。
そして、6月明治座で最後の芸道55周年記念「北島三郎コンサート」が盛大に行われ大盛況で終演した。
8月には高尾山に「高尾山」の歌碑までが建立されている。
2016年度春の叙勲で「旭日小綬章」受章の栄誉に浴した北島は「私の人生の1ページに大きな足跡と歴史が残った」と感謝を表したと言う。
そして、2016年(平成28年)10月5日、6日グランドプリンスホテル新高輪・大宴会場「飛天」の間において、「北島三郎 芸道55周年感謝の宴」が盛大に行われたのである。
さすがに「北島三郎 芸道55周年感謝の宴」だけに内容もすばらしくよく、豪華であった。「召し上がるお料理の上で箸を開いてください」と但書が添えてあった。
割り箸を紙袋から出し、そっと割ると、はさんだ金粉がかなりの量、料理にふりかかる。なんと洒落たもてなしかと感心するディナーの始まりであった。
コンサートではあいにく北島三郎は車イスで参加し、1曲も歌わなかったが、ファミリーが参加し、それなりの歌謡ショーであった。そして記念品として、発売前の新曲『幾多の恩』のCDを全員に進呈した。
『なみだ船』のデビュー曲以来500曲以上の歌を歌い、CDを出し、47曲のヒット曲を出した。そして、舞台にテレビ、公演に海外にも多くの出演、そして叙勲・受章、そして馬主として「キタサンブラック号」の天皇賞・優勝。現在では業界の大御所にふさわしい実力の北島三郎である。
半農半漁の小さな村の漁村に生まれた、大野(北島)少年が、大都市東京に出て来て、これまでに成しとげた事実を目のあたりに見て、すべてに感謝の連続であったと言う姿を拝見。このすばらしい偉業に、万歳、万歳、そして乾杯で閉めくくりたい。
参考資料 北島三郎パンフレット
平成29年1月8日 記
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