西暦 日本歴 記事
1946 昭和 21 6月、日木社、地木社解散。7月、日本木材輸入協会設立。10月、木材統制法廃止、11月、林業会法施行。臨時物資需給調整法公布。
木材業の営業は許可制により再開。(許可される者約1,500名)11月、林業会法に基き新東京木材林産組合及び東京製材林産組合設立。12月、旧東京材木問屋同業組合員および旧東京材木商同業組合員をもって東京木材林産組合(理事長武市昇太郎、組合員約1,300)を設立、集荷切符の割当を行う(事務所・日本橋国民学校内)。
東京都の木材移出入割当に関連して木材、製材両業界対立して争う。
1947 昭和 22 1月、指定生産資材割当規則発令。木材は中央発券主義となり林産組合は割当権限を失い林業会法は骨抜きとなる。4月、労働基準法公布。5月、日本国憲法施行。10月、本所の業者により東京木材問屋協会再建設立(会長実川計徳)。11月、問屋のみの林産組合結成さる。(第2次東京木材林産組合、理事長井本末蔵)組合員約665。事務所、木場4丁目木場ビル内。
仲買のみの林産組合は東京中央木材林産組合(理事長・斉藤庄蔵)及び新東京木材林産組合(理事長・小林寛一)となる。木場の旧問屋有志60余名が「木場新進会」(飯島栄蔵、石川光蔵ら)を結成し木場の復興を目指す。
このとし、深川区と城東区と合併し江東区となる。
1948 昭和 23 4月、政府は木材業の許可制失効に伴い、登録制を実施。(都内業者急増、9月ピーク、5,031名を数う。)
戦後初めて外材(米材次いでラワン)輸入さる。これより合板工業各地に興る。6月、都下各林産組合員の出資により深川2丁目に木材会館(木造2階)建つ。(昭和24年東京木材林産組合が買収)。首都復興需要旺盛、木材統制有名無実化し、切符横流し事件も発生。9月、中小企業庁発足。
このとし、戦後初の不況に入る。休廃業広がる。
1949 昭和 24 ドッヂライン政策進む。税務攻勢激化。中小企業の「法人成り」進む。中小企業等協同組合法施行さる。商工中金再建発足。5月、農林省林野局は同省林野庁として発足。(長官・三浦辰雄)
1950 昭和 25 1月、木材統制全廃。林業会法も廃止。木材業の自由競争時代始まる。同月、東京製材協会設立。2月22日、中小企業等協同組合法に基き、東京木材協同組合設立さる。(現問屋組合の前身、理事長、実川計徳、組合員363、出資金518万円。東京林産組合は解散)。3月、東京中央木材林産組合は東京中央木材協同組合となる。本所の有志、帝都木材協同租合設立。(商工中金融資導入)
5月、東京木材協同組合は商工中金より組合員へ転貸資金として借入を行い第1回の貸付開始。同組合は木材価格市況調査委員会を設置。5月24日建築基準法公布。6月住宅金融公庫発足。6月25日、朝鮮戦争起る。特需景気木場にも及ぶ。東京都は木製材業者届出条例を制定。7月、市売市場の関東第1号市売木材株式会社鶴見にオープン。(現・日栄住宅資材。)12月、GHQは民有林の伐採を年間生長量に抑える。
1951 昭和 26 1月、三井農林、立川通りに日東市売(単式)を開設。本所の問屋は対抗上、「特売会」開設に動く。(木場特売会の濫しよう)
4月、東京都木材協同組合連合協議会(今の都木連)設立さる。8月東京新宿木材市場開設(複式)。11月、朝鮮戦争休戦。同月、東京木材協同組合は戦後初めて運動会を催す。
1952 昭和 27 1月、東京木材協同組合は東京中央木材協同組合(のちの東京材木商協組)と提携し、木場特売会(特定契約による入札会。組合保証60日約手扱)を発足し、このとし売上約1億6千万円。
木場に初めて地元資本による市売市場(東京木材市場株式会社千石市場)開設さる(社長武市昇太郎)
4月、対日講和条約発効。
6月、東京原木協同組合設立(理事長武市昇太郎)
7月、東京木材協同組合は、東京木材問屋協同組合(以下問屋組合という)と改称。(理事長上田光春)
8月、問屋組合は木魂に感謝する木材祭を明治小学校において催す。同月インドネシア材初入荷。
問屋組合は組合地区14班制を決定。
1953 昭和 28 1月、東京中央木材市場(株)設立(社長・飯島栄蔵)。このとし、市売市場24を数え製品1,374m3(他に素材96万m3)を取扱う、都内では入荷量から外材輸入量を差引いたものの54%を占める盛況を示す。
6月、問屋組合、東京製材協会、東京原木協組の3団体は共通問題協議のため東京木場協議会を結成。(会長上田光春)。7月、朝鮮戦争終結。このころ、繊維板、削片板等登場す。新建材の先駆をなす。
このとし、「用材の日本農林規格」施工さる。
1954 昭和 29 1月、東京中央木材協組は東京材木商協組と改称。年初より木材不況色強まる。
3月、全国木材組合連合会発足す。(会長松浦周太郎)。3月、問屋組合は清澄公園記念館において第1回模範従業員表彰式を行う。5月、東京都木材組合連合会発足(会長上田光春)
9月、「洞爺丸台風」、北海道に未曾有の量の風倒木を生ず。
1955 昭和 30 7月、日本住宅公団発足。12月北洋材輸入協会設立。このとし神武景気。(32年前半まで)
1956 昭和 31 1月、東京都中小企業団体中央会設立。
木場の立地、環境悪化進む。2月、問屋、製材、原木の3会団は木場の立地上の隘路打開につき江東区に陳情す。
3月、東京都条例により木製材業登録始まる。10月、日ソ国交回復。東京都主催の第1回全国優良木材展示会が木場で行わる。12月、江東法人会支部結成。
1957 昭和 32 4月、問屋組合、第1回新入社員激励大会を行う。5月、問屋組合は東京都知事より中小企業功労団体として受彰。このとし、後半「なべ底景気」にて市況低迷。7月、日本南洋材協議会設立。10月、問屋組合は組合設立10周年祝賀を兼ねて、上記受彰祝賀式典を椿山荘にて挙行(理事長井田 一)。この年都入荷約1,500万石、うち問屋扱600万石、市売750万石、小売り直接入荷150万石と推定さる。
1958 昭和 33 1月、全国北洋材協組連合会結成さる(会長松浦周太郎、理事長上野金太郎)。ソ連材輸入年間50万m3。4月、問屋組合は全国業界に先がけ毎日曜日を組合員の所定休日と定む。青年部会発足。8月、問屋組合、第1回班別対抗野球大会を行う。このとし半ばより岩戸景気に入る。
4月、東京都木材健康保険組合発足。
5月、武市昇太郎逝去。
7月、木場の問屋、製材、原木の3会団は木場移転協議会(会長井田 一)を結成、夢の島への木場移転運動を開始す。
12月、東京都青壮年団体連合会(若手経営者を以て組織・のちの東京木材青年クラブ)結成。
1959 昭和 34 7月、最低賃金法実施さる。
9月、伊勢湾台風発生、問屋組合はその義捐金を組合員より募金、関係県木連へ贈呈。これより外材輸入港の拡散化進む。10月、問屋組合、労働環境改善等により東京都知事より感謝状を受く。秋より材価騰勢に転ずる。
1960 昭和 35 6月、安保闘争。
木場もこの年より労働不足けんちょとなる。7月、問屋組合(労務委員会)は東北方面に人を派して求人活動を始む。
10月、問屋組合は東京労働基準局長より労働条件の向上に対し表彰を受く。
12月、政府の所得倍増計画発足。
1961 昭和 36 1月、木材のメートル制実施さる。(制定は35年7月)。2月、物価高騰。木材価格の高騰著し。
3月、問屋組合、裏高尾に造林のため東京営林局と部分林契釣。4月、木場移転協議会は木場移転建設協議会に改組強化す。
4月、問屋組合の失業保険事務組合発足(加入210社)、組合歌制定、第1回芸能大会を両国公会堂において行う。7月、「建築洋材暫定才法表」施行さる。
8月、政府は木材価格緊急安定施策を発表。国有林800万m3増伐を打ち出すとともに外在輸入促進策をとる。米ツガ丸太大量入荷。各地に米ツガ製材専門工場続出。外材インパクト論起る。
9月、全国木材協同組合連合会設立。(会長・松浦周太郎)
10月、東京製材協会を解散し新東京木場製材協組結成(理事長・大出 叶、37年1月東京木場製材協同組合と改称。)
このとし問屋組合員516。秋、金融引締、景気鎮静に向う。
1962 昭和 37 景気後退。
2月、問屋組合、組合員の木場移転準備積立金を毎月商工中金・三和・東海銀行に積立斡旋開始。
6月、東京港木材事業協組発足(理事長・井田 一)
11月、本所の東京木材問屋協会員5社共同にて都下調布市に東京最初の木材センター開設(木場木材センター(株) 社長 樋山敏秀)。これより郊外各地に木材センター開所第3の卸売勢力となる。 政府は金融緩和政策に転ず。
12月、問屋組合、失業保険事務組合の業務優良により労働大臣より表彰さる。
同月、問屋組合総代会は有明都有地3,009坪の購入(商工中金より借人)と組合員1人当り毎月1万円の出資増による借入金処理を採択す。(増資引受511名)(理事長・井田 一)
1963 昭和 38 2月、米材の専用船化進む。5月、問屋組合、有明土地を組合員に木材置場として貸付開始。
7月、日本米材協議会(会長・郡司 章)設立、米材需給の連絡機関となる。
11月、問屋組合、正量取引推進委員会発足す。
このとし、初めて直需センター(産地業者による大工・工務店への直売大型小売店)神奈川県に設立。米国金利平衡政策をとり.年末株式相場暴落。
1964 昭和 39 4月、わが国、IMF8条国に移行。(為替、貿易の自由化本格化)
7月、林業基本法公布施行。10月、東京オリンピック。年末ポスト・オリンピック不況来る。木場の一流問屋の倒産多し。このとし業界関係倒産288件(これ迄の第2位)。
このとし、輸入材は全供給の23%を占める激増を示す。
1965 昭和 40 2月、米国、ベトナム北爆開始。
5月、問屋組合東京都知事より昭和39年度モデル組合に指定され、上野精養軒において組合功労者表彰を兼ねて祝賀会を催す。
11月、問屋組合、板橋流通センター用地5千坪を買収し、組合員の木材センタ一開設に備える。
1966 昭和 41 3月、問屋組合は深川不動尊楼上にて初めて長寿を祝う会(敬老会)を催し恒例の行事となる。
景気回復に向い(いざなぎ景気)、材価もち直す。このとしより日本経済は実質成長10%を超す。(45年迄)。
7月、林野庁は木材価格安定対策委員会を設置。
このとし、政府は第1期住宅建設5ケ年計画を発足(目標670万戸)。人ロ1億人突破。
1967 昭和 42 2月、林野庁、材価安定のため国有林材20万m3の放出を決定。11月、問屋組合創立20周年記念式典を新橋演舞場にて催す。出席者1,300名。(理事長 小疇鉱三)
12月、問屋組合、奥多摩に造林のため氷川保善会と団地造林契約を結ぶ。
1968 昭和 43 4月、JAS認定工場制度、全国一斉に実施さる。
1969 昭和 44 3月、米国対日丸太輸出制限を実施。
このとし、外材の全国供給量に占める割合51%となる。
1970 昭和 45 1月、問屋組合、祝祭日も休日とする。同月、日本外材総合需給協議会(会長郡司 章)設立さる。9月、景気後退。
このとし、第2期住宅建設5ケ年計画発足(目標957万戸)
1971 昭和 46 1月、東京新木場木材商工協同組合(以下新木場商工協組という)発足(理事長大出 叶)、新木場移転業務を開始。
木材の不当表示、社会問題化す。7月公取委員会、業界に警告を発す。
8月、ニクソンショック、不況深刻化す。
1972 昭和 47 9月、問屋組合、東京材木商協組は木場特売会創設20周記念式典を催す。
3月、政府は補助事業として木材流通消費改善事業を発足させ、全木協連が業務を代行。
7月、田中角栄内閣発足、日本列島改造ブーム起る。住宅建設の伸び、海員スト、天候不順が重なって7月より木材相場急騰、11月未曾有の暴騰、政府は木材価格安定につき業界に協力を求む。この年、材価平均2倍となる。都木連は木材価格安定緊急対策本部を設置。
9月、日中国交回復。
10月、製材の農林規格改正を告示。
11月、東京都は初年度新木場移転企業に分譲地価を提示。
1973 昭和 48 大阪に大手商社による木材大型小売店開設が計画され、木材界の全面的反対運動を誘発。
7月、全木協連の見本コ一ナー落成。10月、米国、ワィアット法(丸太輸出規制)成立。政府は米材丸太の輸入自主規制を決める(年間955万m3)
11月、オイルショック。木材価格も急騰。
このとし、新設住宅着工戸数戦後最高(191万戸)を記録す。
1974 昭和 49 2月、木材相場全面安、これより戦後最長の不況に入る。
3月、板橋の東京住建資材センター開設。
4月、問屋組合は月1回(第3土曜日)の週休2日制を実施を決める。
5月、日本木質構造材料協会発足。(のちの日本住宅・木材技術センター)
6月、問屋組合、現木材会館建設の鍬入れ式を行う。
8月、政府は枠組壁工法(ツーバイフォア工法)を告示し、オープン化を実施す。
9月、問屋組合、潮見の東京見本コーナーの運営を開始。
10月、政府は材価安定策として日本木材備蓄機構を発足させる。
12月、SEALPA(南洋材輸出機構)結成される。
このとし、新設住宅着工戸数131万6千戸に急減。
1975 昭和 50 3月、新木場移転の問屋グループ、用地契約すべて終る。
7月、問屋組合新館・木材会館竣工。(理事長 亀井初男)
8月、全国木材産業政治連盟発足(会長 稲勝正太郎)
12月、問屋組合、千葉県浦安の土地約6千坪を購入。
このとし、不況ますます深刻化す。企業倒産件数、これ迄の最高を記録(12,600件)。
このとし、新設住宅着工数135万6千戸。
1976 昭和 51 3月、新木場への移転略々終る(56グループ456社)。
4月、ハウス55計画予算化さる。(建設、通産両省共管)
5月、材価回復の兆し。(秋口まで)。
在来の木場で営業を続ける木材業有志、「木場振興会」を結成、(加盟326社、会長 山木貞次郎)。7月、問屋組合、浦安土地を木材置場として組合員に貸与を開始。
10月、新木場の発足を祝い「新木場木材まつり」を挙行。(主催・新木場商工協組・理事長 亀井初男)。東京材木商協組、新東京木材商業協組、夫々創立30周年祝典を行う。
11月、東京原木協組、創立25周年記念式典を行う。
12月、日本木材備蓄機構、49年度材の放出を始む。
このとし、前半景気やや持ち直すも後半政情混迷し景気も中だるみ、次いで本だるみとなる。このとし政府は第3次住宅建設計画を発足(目標860万戸)。
このとしの新設住宅着工数152万3千戸に回復。
1977 昭和 52 2月、問屋組合、組合員新規加入条件(譲渡方式)を決め、加入手続を始む。
5月、問屋組合総代会は新木場移転に伴う新班編成案(15班制)を採択。
都港湾局は新木場地区を都市計画法上の臨港地区に指定したい旨提議す。
6月、新木場商工協組は特別対策委員会を設け臨港地区指定反対運動を起す。
9月、円高(1ドル191円、10月185円)不況進む、政府は総合不況対策を打ち出す。
公定歩合0.75%引下げ(本年3回目)4.25%となる。(戦後最低)
10月、政府は合板業界に対し明年3月までの長期不況カルテルを認可す。日本住宅・木材技術センター設立さる。東京都は木場移転跡地利用および昭和記念公園設置を含む木場地区防災再開発計画案を発表。
11月、全木連会長・全木政連会長 稲勝正太郎急逝。
本年新設住宅着工150万8,000戸。(前年度比1%減)
1978 昭和 53 4月、森林組合法成立
5月、問屋組合理事長に飯島栄蔵就任、「組合員のための組合」を標榜。
7月、問屋組合、見本コーナー経営改善に着手、不良在庫一掃のため入札会を開く。
問屋組合、班単位の材友会結成を進む。
8月、運輸省令(自動車運送事業等運輸規則)改正され、トラック業者に対する過積規制強化さる。円高続く(1ドル180円台となる)。
10月、東京都は新木場第2次移転基本方針(19.6haを時価方式で分分譲、56年3月末売却完了)を決める。
経済企画庁、円高による輸入価格動向を発表、木材は51年末比29~44%低下を見せる。(円高、最高1ドル175円)
11月、全木連・全木協連主催・全国木材業者大会(東京)は初めてトラック過積み対策および一般消費税導入反対を打ち出す。
12月、道路交通法改正さる、自家用車に対する過積規制強化され、木材業界の危機感強まる。外材の輸入価格高騰、トラック過積規制、ドル相場回復を織り交ぜエゾタルキ、合板を筆頭に木材市況大揺れの気配を示す。このとしの新設住宅着工数・154万9千戸。
1979 昭和 54 1月、株価急騰一段落(1月後半)、林野庁は日本木材備蓄機構の型枠用合板の緊急放出を決定
2月、通産省初めて国内景気は回復過程に入ったと表明。
全建総連の主導により木造住宅振興議員連盟発足。
3月、全国中小企業団体総連合等の中小企業団体は東京・九段会館において一般消費税反対・財政再建を考える大会を開く。(会衆2千)。全建総連は住宅関連資材の価格安定に関し関係官庁等に陳情を行う。3月29日、総理府の全国住宅調査(53年10月1日現在)は、総世帯数3,309万世帯、総住宅戸数3,571万戸と発表。
5月、連休明けを境に木材市況再び急騰に転ず。エゾタルキm3 6万円を唱う。問屋組合は臨時価格委員会を開き情況分析を行う。
6月、農林水産大臣(渡辺美智雄)戦後初めて木場を視察す。
林野庁は日本木材備蓄機構の型枠用合板の緊急放出を決定。(本年2度目)
7月、全建総連は建設資材引下げを要求して林野庁前で座り込みを行う。
8月、新木場商工協組は新木場の臨港地区指定に反対の態度を再確認。
10月、国産材産業振興資金制度発足(融資枠250億円)
12月、新木場商工協組、木場公園対策協議会、東京都及び江東区は新木場の臨港地区指定問題と切り離して第2次移転を進めることに合意、4者協議会を設置して今後の解決に当ることとす。OPEC総会、原油価格協定不成立、第2次オイルショック。ソ連、アフガニスタンに軍事介入、国際緊張高まる。このとし新設住宅着工戸数4年ぶりに150万戸を割る(149万3千戸)。
1980 昭和 55 1月、原木輸入価格上昇続く。
4月、国内景気にかげり現わる。円相場260円台に下る。イラン石油供給停止。
5月、問屋組合は通常総代会において本年度組合費3ケ月分免除を決める。
米国通商代表アスキュー大使、米国からの木材製品輸入拡大を日本政府に要請。政府は48年決定の「森林資源に関する基本計画」並びに「重要な林産物の需給に関する見透し」を改訂。
6月、木材製品価格ハツキリ低落に転ず。
8月、政府は公定歩合引き下げに転ず。
9月、林野庁に外材問題対策室を設置し、長期対策の検討に入る。一般製材業、木材卸売業が中小企業信用保険法上の不況業種に指定さる。
10月、カナダ3社、米材製品の第4クオター積み契約の実行見合せに応ず。
日本木材備蓄機構は価格安定策として米栂製品2万m3の積み増しを決める。
11月、全木連(会長 竹田平八)は木材業界危機突破決起大会を行う。(自由民主会館)。日米木材貿易促進委員会(第1回)米国にて開かれる。
このとし新設住宅建設126万8千戸、昭和43年以来の低位。
1981 昭和 56 1月、円高傾向強まる。(1年11ケ月ぶりに200円突破) この月の新設住宅建設6万7千戸、14年振りの低水準。新木場第2次移転173社の仮割当区画決る。
2月、日本米材原木協組連合会は大手商社に対し当面米材原木輸入を昨年比50%削減を申入れる。京浜米材協会は米材製品の4月の積取り停止を大手商社に申入れる。
3月、農林水産省は1980年世界農林業センサスの林業地域調査結果を、日本の森林蓄積量は23億3千万m3(うち人工林9億148百万m3)、伐採適期材は45年比23%増と発表。
公定歩合第3次引下げ(1%下げ、6.25%となる)政府は総合経済対策を決定し景気テコ入れを図る。
4月、第4期住宅建設計画スタート(5年間770万戸)。輸入外材の在庫調整進むも材価の動き鈍し。
5月、インドネシア新林業政策を打出す。合板工場対象に丸太輸出枠の発給を決める。
同産地の丸太輸出落ち込む。
7月、合板業界に不況カルテル認可さる(戦後14回目)。
8月、円安加速、3日245円となる。米国の金利高がひびく。
10月、新木場臨港地区問題、江東区長のあっせん案にて決着。政府は当面の景気対策を決めるも新味なし。行財政改革国会始まる。8日(木の日)に当り都木連は「木の日の祭典」(日比谷公園)を、問屋組合は木場内10団体の協力を得て、トラック43台による市中パレード、マナ板3,500枚の配布(数寄屋橋)を行い、木の良さのPR作戦を行う。
12月11日第4次公定歩合引下げ、0.75%下げの5.5%となる。問屋組合、有明土地訴訟問題(売却手数料問題)和解にて解決(東京地裁)。
このとし新設住宅着工数115万1千戸。
1982 昭和 57 1月、外材の入荷調整続く。円安続く(約220円)。
政府は57年新設住宅建設目標130万戸と表明。
東京都は木場第2次移転要領を発表。(新木場・辰巳地区併せて2.5ha、57年3月末用地契約終了)。
2月、インドネシヤ政府は1986年以降原木輸出を禁止する旨表明。城南木材市場閉鎖す。
3月、南洋材在庫2ケ月を割る。(46年2月以来の低位)。木場第2次移転予定者(173社)の都庁との用地契約終わる。
5月、問屋組合理事長に渡辺 茂就任。
6月、円相場低落急調。14日2年2ケ月振りに250円を割る。型枠用合板相場急変。木材輸入組合設立問題起るも賛否両論にて進展せず。
7月、農水省は、57・58年度に実施する「木材産業再編整備緊急対策事業(製材業・合板製造業)」の基本方針・実施要領を40都道府県に指示〈利子助成基金30億円、融資枠250億円)。
9月22~26日東京晴海において増改築推進キャンペーン実行委員会(湯藤実則会長)が、「82年住いの増改築フェア」を開催。(鈴木総理大臣も視察)。都木連(渡辺 茂会長)は、傘下19団体に対し「法人化並に木材産業振興基金」の募集活動に入る。
10月8日、都木連主催による「木の日の祭典」を行う。(芝公園で式典、市中バレード、数寄屋橋・門前仲町で俎配布等)。
11月、円相場278円となる(1日)。下旬米国公定歩合引下げを契機として、円相場上昇に転ず(22日、256円)。中曽根内閣誕生。北洋材在庫減少、エゾ松値上がり、市況をリードす。12月、このとし新設住宅着工戸数114万6千戸。